牙を持った羊 作 海神 幻耶 序章 越えられぬ壁  所詮この世に神も悪魔も存在などしない。  故に人間の敵も味方も人間だけだ――  所詮神も悪魔も総て人間の創り出したモノ  故に人間に毀せぬモノなど在りはしない――  この絶対矛盾が持論だった。  そしてそれが今まで自分を支えてきた。  しかし、或る日を境にそれは根底から揺るがされ、否定される。  それも、自分がこの世で最も愛しく想う相手によって、いとも簡単に――  この世は光と闇、即ち善と悪に分かれており、その狭間で僕等は揺れ動いている。    善に囚われず、悪に怯まず、ただ只管善悪の境界線を行き来している。  時としてこの相対する二極に近付くコトはあれ、完全に至るコトは無い。  決して――  そして、行動の過程も結果も又然りだ。  しかし、彼女は大変稀有な結果を齎すコトになる。  その行動の過程はあからさまな悪意に誘われた善行であり、  その行動の結果は眼に見えない善意に導かれた悪行なのである。  尤も、そのコトについて彼女に訊けば、こう答えるであろう。  ――やりたいからやるの。  そして彼女を識る者から見れば、彼女は前代未聞の偉業を成し遂げた善人であり、  同時に彼女を識らぬ者から見れば、彼女は前人未到の境地に達した悪人なのである。  完全なる二面性――この絶対矛盾、絶対不可能を彼女は成し遂げた。  しかし、それはまだ先のコト。  過去あってこそ現在があるように、現在無くして未来は語れない。  これから話す彼女を巡る事件は、多分、あの日から始まっていたのだと思う。  あれは、そう――僕が生まれて初めて冒険をした日のコトだ。  糾われし運命の中、僕等は出逢った。  遥かなる理想を叶えんが為に―― T 不良神父、迷える仔羊に出逢う早々ナンパする  初夏の午後。  駅前の繁華街は、賑やかな喧騒に包まれていた。買い物途中の主婦の方々、お勤め帰り のサラリーマンであるお父さん方、そして仕事をサボって駅前のベンチに凭れ掛かる不良 神父――  皆、この何気無い日常、やがて思い出すコトも無くなるであろう、しかし一生に一度し か巡ってこないこの時間を過ごしている。  ベンチに凭れ掛かりながら、ふとそう思った。  すると僕は、いつも奇妙な――但し決して不快ではない――感覚に囚われ、軽く頸を擡 げる。  これでは、まるで――  ぐう。  まるで僕の心の呟きを打ち消すかのように、腹の悲鳴が聞こえた。無論僕のものではな い。僕は頸を巡らせて、ベンチ――しかも選りに選って僕の右隣だ――の背に凭れ掛かっ ている少女を発見した。 「………」  僕は後に振り返り、この時何故にこの少女が自分のすぐ傍に近寄ってくるまで気が付か なかったのかと不思議な気持ちになる。  しかし、それは未だ先のコトだ。 「………」  その瞬間、先程とは別の――言うなれば眩暈に近い――奇妙な感覚に襲われた。そして いつの間にか、少女に眼を奪われる。  年齢は十代半ば頃であろうか。しかし少女の放つ幼い雰囲気と、キャップにパーカー、 そして膝丈のジーンズといった、まるで少年のような出で立ちが少女を実年齢より幼く見 せる。しかし女性の年齢というもの分からないもので、時によっては大きく読み間違える コトがある。だから案外見掛けにはよらないのだ。  多分。  しかし中学生位でだろうか?それとも………  まあどちらにしろ、同年代には見えない。 「おにーさん………」 「ん?」  少女は僕の眼を真っ直ぐ見据え、怖い位生真面目で神妙な口調で口を開き、 「あのね………」 「………」  無言の僕に、少女はやはり無言で、哀しげに、しかし妙にキラキラした瞳で何かを訴え かけてくる。そして時間が経てば経つほど、少女の顔が泣き出しそうに歪んでゆく。  一方僕はといえば、少女の責めの視線を受けながら、居心地悪そうにやり場の無い視線 を彷徨わせていた。  何れにしろ、何かを言わなくてはなるまい。  何の根拠も無くそう思った僕は――これも又後に振り返ってみて、何故に自分がそのよ うな大それたコトを言ってしまったのか、と思わず赤面してしまう――とんでもない行動 に出た。 「ナンパ、してもイイかな?」 「………え?」  少女は思わず絶句して、口を開けたまま数秒間固まった。どうやらこういう展開は予想 の範疇には無かったようだ。 「………」  そして、僕も固まった。  但し、聖職者である自分が、ナンパを試みるという行為に背徳感を覚えたからではない。 神父だって人間だ。気に入った女がいれば、当然ナンパ位する。但、まさか自分がそうい うコトをするとは、我ながら思いもしなかったからである。 「この先に旨い飯を食わせてくれる喫茶店があるんだ。あんさんさえ差し支え無ければ、 お付き合いして欲しい。――勿論、奢るからサ」  生まれて初めてのナンパにどぎまぎして、思わず口早に言った。後半なんか半ば吃って いた。 「駄目?」  未練がましく言った。  すると少女は我に返り、やがてくすっと笑った。 「面白い人」 「そうかな?」 「うん♪」  不意に僕等は顔を見合わせ、思わず口元を弛ませる。やがて少女は口の端に笑みを残し たまま、徐に立ち上がった。  それから少女が一体何と言うのか、少女の口から一体どういう台詞が出てくるのか、楽 しみに待った。 「――オムレツ(当店自慢のタバスコ入りのケチャップがお勧め)でございまーす」 「うわ!」 「――パスタ(ベーコンと南瓜、そしてチーズを絡めたのがお勧め)でございまーす」 「わお!」 「――ブイヤベース(魚貝類満載でサフランと大蒜の風味が特徴)でございまーす」 「うあーい!」  店員がテーブルに注文した料理を運ぶ度に、店内にいちいち喜悦の声があがる。しかし そのトーンは、感心と言うよりは感激に近く、更に僅かながら畏怖の念が込められていた りする。  ここの料理は上等で、好評を博している。しかし空腹という名のスパイスを持っている 彼女は、それとは殆ど無関係に旺盛な食欲を見せ、眼の前にある料理を片っ端から平らげ ている。  まあ聞くトコによれば、何でも彼女はここ数日、碌に物を食べていなかったらしく、夢 中になるのも頷ける。  ここは、駅前の繁華街の大通りを抜けた、路地裏に存在する喫茶店《ユグドラシル》。 この風変わりな店名を掲げるここは、知る人ぞ知るといった目立たない店であり、かなり 特殊なトコだ。  業務内容に於いても、その店員に於いても――  ………にしても、どーして僕は、こんなトコにいるのだろう? 「何だかな………」  僕は呟き、すっかり氷の溶けた微温い水を喉に流し込んだ。 「ねェ!」  突如、元気一杯な声が耳朶を打った。 「ひゃ!」  思わず、少しばかり仰け反ってしまった。 「あ、あによ………!?」  内心焦りながら聞くと、向かいに座っている少女は、然も美味しそうにパスタを頬張り ながら何か言ってきた。 「ほほほへは、ほひーはんほほははへっへはひ?」  言うまでも無く、何を言っているのかさっぱり判らない。 「悪い。口の中の物を飲み込んでから話してくれ。何を言っているのかさっぱりだ」  すると少女は、ごっくんと碌に噛まずに飲み込んだ。 「――よく噛んでから食えよ」  思わずぶっきらぼうに言った。 「ところでサ、今更こんなコトを訊くのもあれなんだケドサ………」 「おにーさん、お名前何てゆうんだっけ?」 「あれ?言ってなかったっけ?」 「うん。ゆってたらわざわざ訊いたりなんかしないよ。………まあ名前なんてあってもな いようなモノだケドね」  少女は聞きようによっては随分意味深なコトを言った。その表情には何処か達観したよ うなトコが――無くも無い。 「まあ無理にとは言わないケド、何だったらおにーさんがボクに呼ばれたい名前でもイイ から――」  少女は、一点の曇りも無い澄んだ瞳で、伊達眼鏡越しの僕の隻眼を真っ向から見詰めて きた。  何と言うか、全てを見透かされそうで、正直居心地が悪い。  だが―― 「――御巫」  僕は内心、少しばかり辟易としながらも、彼女の純粋な好奇心に誘われるように、名乗 っていた。 「御巫・セバスチャン・狛彦――見ての通り、神父だ」 「セバスちゃん?それに神父?」  少女は、まるで今気付いたかのように呟いた。僕は思わず口元が弛み、胸元の十字架の ペンダントを取り出して見せた。 「セバスチャンは、洗礼名だ。ウチの教会の信者は、洗礼を受けると、新しい名前を付け てもらうんだ。そんでもって、俺はそこで神父をやってる。尤も神父は神父でも、あまり にも不真面目で雑な性格が災いしてね。ウチの堅物女司祭には、どうもそれが乱暴に見え るらしく、影では《不良神父》なんてぼやかれてるケドね」  そう言って、手元のナプキンにペンを走らせ、少女に手渡す。そこには、横書きで名前 が書かれ、その下には我ながら流麗な筆記体で読みを加えてある。 「………ヘェ………変わったお名前だね」 「確かに。親がこれ又とんでもない変わり者でね。一応狼っていう意味合いが込められて いる。お袋が自分の名前を削って付けてくれた」  しかし名前だけでなく、まさか生命まで削っていたとは、当時の僕には知る由も無かっ た。 「ヘェ………オオカミかぁ………」  少女はその響きが気に入ったのか、口の中で何度も僕の名前を反芻し、満面の笑みを浮 かべた。 「ああ。それでもし、あんさんさえ差し支え無ければ、コマと呼んでくれ。みんなはそう 呼んでいる。何なら俺の特徴を踏まえた上での呼び名でもかまわないケドな」  言い終えると、不意に少女は、「神父か………」と呟き、急にまじめな顔になった。大 きな瞳が細められ、何らかの意思が昏く光る。それが何なのかは判らず、感覚を研ぎ澄ま してその正体を探ろうとした瞬間、 「奇遇だね」 「奇遇?」  少女の微笑と共に、それは消え失せた。 「実はボクも、神父さんを捜している可愛らしい迷える仔羊なんだ?」 「………」 「………なーんちゃって。あは♪」  妙に芝居が掛かった口調でそう言うと、少女は吹き出した。そのまま暫く笑い続けてい る。猫のように細くなった眼を半ば憮然と見下ろし、ボクは「笑ってろ」と小さく舌打ち した。 「因みにそーゆーあんさんはどーなんだ?」 「ボクは一人暮らしだよ。これでも自立してるんだ。おねーさんって呼んでイイよ」 「いや、そーじゃなくて、名前」 「え、ボク?ボクの名前は………」  当然のように訊くと、途端少女の顔が引き攣った。  何故、そこで引き攣る。 「えっと………なぎさ、とかでイイかな?」 「え、いやその『とかでイイかな?』って?もしかして偽名なんじゃあ………」  訝しがるボクになぎさ(自称、偽名の可能性あり)は慌てて誤魔化した。 「ん、いや大丈夫!ノープロブレム!ボクはなぎさ。ホントこれにけってェ〜い!!」 「いやその『これにけってェ〜い!!』って?やっぱり偽ーー」 「ホント大丈夫。気にしないで。ね?」  有無を言わせず言う、少女――なぎさ。  そんな科作られても困るっつうの。 「で、姓は?」 「せ、せい?」 「苗字のコト」 「ああ、姓、苗字ね。今は………」 「『今は』?」  やっぱり偽名らしい。 「ま、イイや」  本当は全然良くないのだが、どうせ答える気が無いのだろう。だからといって、態々詮 索するほど僕は無粋じゃない。 「じゃあ、コマちゃんって呼ぶね。ボクはなぎさだから、なぎって呼んでね」 「………」 「ダメ?」 「お好きなように」  そう返すと、僕と彼女――なぎは同時に吹き出した。 「あはは………」 「ははは………」  それから僕達は延々とだべっていた。時折追加注文をしながら、ここのメニューの薀蓄、 趣味、最近の出来事、故郷のコト等、何てコトの無い話をしていた。道端で出逢った見ず 知らずの女性とこうやって差しで話すのは、随分と久し振りのコトだが、案外楽しいもの だった。  そんなこんなで時間は刻々と過ぎ去ってゆき、遂に閉店の時間となってしまった。 「あ、もうこんな時間だ。そろそろおいとましなくちゃ」 「ああ」  すっかり冷めた珈琲を喉に流し込むと、僕達は立ち上がり、レジへと向かった。 「今日はすっかりごっちになっちゃって、ホントにありがとう」 「いやいや、俺も中々暇を持て余している身でね。こちらこそ、付き合ってくれてどうも ありがとう」  そう言って踵を返そうとすると、彼女は僕を見て何かを言い掛ける。  気の所為かも知れないが。  だがその顔には、何と言うか、切実な光が見えたような気が、しなくもない。 「ん?」 「うぅん、何でもないよ、何でも………あはは………ばいばい」 「応………」  僕との別れを惜しむというよりは、ただ単純に淋しいように見られる。お節介かも知れ ないが、僕は彼女に連絡先を控えたメモを握らせ、今度こそ踵を返した。 「じゃな。可愛らしい迷える仔羊になるコトがあったら、ここに連絡しな、なぎ」 「うん。ありがと。ばいばい」 「ああ。貴女にも主の御加護がありますように。アーメン」  そう言って、胸の前で小さく十字を切った。  背後から「また誘ってね」と言う声が聞こえたが、僕は特に振り返らずに、背中越しに 手を振った。  そして、夜。  誰も家にいないコトをいいコトに、以前戦友から廻してもらった超極レアお子様禁止な ビデオ『マグロ天国@〜これが噂の名門!聖愛女学園〜(限定版)』を鑑賞しようとして いた、その時だ。  何の前触れも無く、いきなり携帯の着メロが鳴り響いた。  僕は思わず時計を見た。  午前二時過ぎ――良い子なら、疾うの昔に寝ている筈だ。  こんな時間に突然電話を寄越してくるのは一体どういう輩だ?出張に出ている義母上様 か?姉貴か?バイト先の所長か?昔の女か?それともたる――  駄目だ、心当たりがあり過ぎて、一体誰なのか見当もつかない。  やがて意を決した僕は、恐る恐るボタンを押した。 「もしもし」  そこから聞こえてきたのは、聞き覚えのある女の声だった。但し、何故か何処か弱々し い、そんな気配があった。 『あ、コマちゃん?良かった。ちゃんと繋がった』 「どうした?こんな時間に」 『逢えないかな?』  それが全てであり、それで充分だった。だから僕は、不安そうな声の主にこう囁いた。 「奇遇だな。俺も丁度今、可愛らしい迷える仔羊をまっていたトコだ」  それから僕は、彼女の現在地を待ち合わせ場所に指定し、二三打ち合わせをすると、即 行で戸締りを確認して、家を飛び出した。 『コマちゃん、ボクを、助けて』 U 不良神父、親がいないのをいいことに女のを家に連れ込む 「ゴメンね。こんな夜遅くに、迷惑だったでしょ?」  人気の無い、夜の街をぶらぶらしていると、なぎは唐突にそんなコトを言ってきた。 「ああ。お陰で『マグロ天国』を見損ねてしまった」 「まぐろ、天国」 「ああ、いや、こっちのコト」  それから互いに口を閉ざし、暫くの間、沈黙が続いた。  何と言うか、かなり気まずい。こういう場合はやはり―― 「この焼肉は焼きに――」 「ねェ――」  僕は言葉を切った。彼女は僕の腕にその華奢な腕を絡ませてきたからだ。まるで寄り掛 かってくるように歩いているので、彼女の胸の感触がダイレクトに伝わってくる。この小 柄な肢体にしては意外とある――七十八、否、八十はある。 「コマちゃん」 「あ、あい」  気が付くと、僕達は駅前の噴水の前を歩いていた。既に午前三時を廻っているため、噴 水の水は引いている。 「少し、休もうか」 「うん………」  なぎに噴水の縁に座らせると、僕は近くの自動販売機に眼をやった。 「飲み物買ってくるケド、何か希望ある?」 「ん、ポカリかアクエリアス」 「了解。じゃ――」  そう言って、踵を返した僕の服をなぎが?んだ。 「?」  振り向くと、なぎは泣きそうな顔で一言、 「置いてちゃ、ヤダ」 「ん、じゃあ一緒に行く?」 「うん」  訊くと、なぎは嬉しそうに笑った。こうして笑ってくれ分にはイイのだが、先程のよう に哀しそうな顔をされると、何だかこっちまで哀しくなってくる。 「はいよ」  自動販売機でポカリを購入し、なぎに手渡す。 「サンキュー」  手渡されると、なぎは早速その場で飲み始めた。彼女がボトルを両手でしっかりと持っ て、んぐんぐと飲んでいる姿に懐かしさを感じ、僅かに笑いが漏れる。  そして、暫し沈黙。時折遠くからバイクがエンジンをそらふかす音が聞こえてきた。や がて痺れを切らした僕は、黙っているなぎに焦れたように訊ねた。 「訊いても、イイかな?」 「ん………訊いてくれるの?」 「勿論。俺は曲がりなりにも神父なんだぜ?だったら迷える仔羊を導くコトが仕事だ。だ から話してみないか?別に支離滅裂だってイイ。思いつくまま話してみな。そうすれば段 々と分かってくるからサ」 「そう?」 「応よ」  上目遣いに見てくるなぎに、僕は大きく頷いて見せた。 「追われているんだ。二人ほど」 「うん?」  幾分唐突な話し方だ。しかし、こういう口火の切り方をする人は案外珍しくない。いき なり訊かれても、上手く順序立てが出来ないのだ。普通ここで横から色々言うと、ちょい とばかし混乱し、余計時間が掛かってしまう。先にも言った通り、こういう場合は先ず、 落ち着かせて、ゆっくりと話を聞くに限る。例え支離滅裂であったとしても、結局それが 一番であるコトを経験上よく知っている。 「でね………」  彼女は残ったジュースを一口含むと、宙へと視線を泳がせた。その仕草が、僕は妙に引 っ掛かった。なぜならこういう仕草と表情を見せる時、大抵人は必要最低限のコト、もし くは当たり障りの無いコトしか口にしないからである。つまり、少なからず隠し事がある というコトである。本当に些細なコトならイイ。でが、そうでない場合は………  まあ、それでもイイ。急がなくても、少しずつ訊けばイイ。 「取り敢えず、俺ン家へ行こう。何処か行く当てがあるならそこでもいいケドな」  無論、なぎに異論は無かった。  ドアを開けると、これ以上は無いまばゆい笑顔がそこにあった。  僕はそれを見て、同じく笑みを浮かべると、ドアのノブを素早く手放し、そのまま踵を 返した。しかし、最初の一歩を踏み出そうとした瞬間、背後から伸びてきた手に肩を?ま れる。  一体全体どういう鍛え方をしているのだろうか?  測り知れない握力を秘めた掌は、僕の三角筋を軽々と握り潰し、鋼鉄の強度を持った五 指は、楔の如く肉を穿つ。  パン、という一瞬の破裂音の後、背後から尋常ではない怒気――否、殺気が押し寄せて きた。正直、ヤバいと思う暇すら無かったと思う。  ギギギ………と錆びた歯車の廻る音が聞こえてきそうな程、ぎこちない動きで背後を振 り向き掛けた時、僕は激痛を知覚するよりも恐怖を覚えた。 「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!」  振り返れば、奴がいた。  そこには、肩口まで届く髪を無造作に束ねた、二十歳前後と思しき女性がにこにこ笑顔 で立っていた。  我が義姉――御巫 沙羅である。  一言で言えば美人。二言で言えば包容力のある美人である。しかしその顳?には、怒り の青筋が稲妻のようにくっきりと浮かび上がっていたりする。  それを見た僕は、一瞬にして凍り付いた。 「コマちゃん………」  にこにこ笑顔が歪み、翳りが生じる。 「あなた………一体今何時だと思ってるの?」  彼女は両手で僕の両肩を握り潰し、俯いたまま小刻みに震える。 「え、と………これには、マリアナ海溝よりも深ーい理由が………」 「言い訳なんて聞きたくない!あなたが帰ってくるまで、どれだけお義姉ちゃんが心配し たと思ってるの!?」  言い訳は一蹴され、両肩が音を立てて爆ぜる。 「いつもいつもいつもいーっつもお義姉ちゃんに心配かけて!そんっなにお義姉ちゃんに 淋しい思いをさせて、なにが楽しいの!?あなたももう子供じゃないんだから、出かける んだったら置手紙を残すなり、遅くなるんだったら電話をよこすなりなんなりしなさい! しかもあろうことに………」  半ば錯乱状態で、何故かびしっとなぎを指差した。普段は垂れ気味で、慈愛に満ちた双 眸は悲哀と憐憫を称え、まるで蛇口を全開にしたかのように泪が流れる。 「お母さんが留守なのをいいことに女の子を連れ込むなんて!不潔よ!お母さんとお義姉 ちゃんはあなたをそんなふうに育てた覚えはないわ!」  沙羅は零れる泪を煌めかせながら、僕の頬に力いっぱいびんを見舞った。  浮いた。  眼が飛び出る程激しい衝撃を顔面に受け、一瞬の浮遊感の後、身長百八十七センチ、体 重九十一キロを誇る僕の体は、錐揉みしながら地面と水平に十メートル以上も吹っ飛び、 民家のブロック塀に激突する。その衝撃で塀は爆砕し、縁側で涼んでいた老人夫婦が、驚 愕の形相で言葉も無くこちらを眺めてきた。  言うまでも無く、凄く痛い。  しかし、宙に浮かんだ時の快感は否定出来ない。  一方、暫く呆気に取られて見ていたなぎは、慌てて沙羅の前に立ち開かった。 「え、と………お、おねーさん。落ち着いてください」 「ん?あ、ごめんなさい。コマちゃんがあまりにも困ったちゃんだったから、つい」  一瞬で素に戻った沙羅は、穏やかな笑みを浮かべて、優しくなぎの頭を撫でた。 「驚かせてごめんなさい。ところであなたは誰かしら?コマちゃん、そんなとこで寝てな いで、この娘をお義姉ちゃんにも紹介して」 「お、俺には謝罪無しかい………」  体を起こしながら、憮然として呟き、口腔に溜った血を吐き出す。幸いにも歯は折れて いないが、どうも顎の調子がおかしい。  取り敢えず今はそれを無視し、なぎと沙羅の元へ歩み寄り、ご注文通り、なぎを紹介す る。 「彼女は、なぎさ。連れてきた理由は、後で説明するケド、断じて女遊びではない」 「初めまして。夜分遅くにすみません」  恐縮するように、ぺこりと頭を下げるなぎ。 「こちらこそ初めまして。こんなとこで立ち話もなんですから、どうぞ上がって下さい。 汚いとこですが、ささ、どうぞ」  つられて頭を下げる沙羅。一通りの挨拶を済ませると、沙羅は僕となぎをリビングへと 誘った。」 「さて――聞かせてもらいましょうか」  一同が席に着くなり、沙羅は言った。垂れ気味の眼は、好奇心で煌めいている。 「ああ。実は――」  僕は掻い摘んで、なぎのコトを説明した。尤も、僕の情報は喫茶店と先程の会話から得 たものなので、殆ど何も知らないと言っても過言ではない。  彼女が天涯孤独の身だというコト。  最近妙な連中に付け回されているというコト。  逃げ回っている内に、所持金が尽きたコト。  聞いている間、沙羅は軽く相槌を打つ程度で、特に口を挟んでくるコトは無かった。 「――とまあ、そんなトコ」  僕が話し終えると、沙羅は懐から煙草を取り出し、銜える。そして火を着け、一服する。 それからふいに席を立ち、台所から僕が隠しておいた酒《線の傷痕》を持ってきた。栓を 親指で吹っ飛ばし、琥珀色の中身を直接呷る。確か随分度数が高い酒だった気がするが、 彼女は噎せるコト無く、飲み干した。僕はその様子を何処か物哀しげ――ではなく、呆気 に取られて見ていると、沙羅は再び口を開いた。心なしか、その眼は潤んでいる。 「なるほど。女が助けを求め、男が命懸けで護る。いい話じゃない。世の中荒んでると思 っていたけど、まだまだ捨てたものじゃないわね」  沙羅は、微妙に違う解釈をしているようだが、要点だけは一応伝わったらしい。暫く沙 羅は、目元にハンカチで拭っていたが、やがて意を決したように、びっと親指を拳から立 てて見せた。 「分かったわ。なぎちゃんは、ことが落ち着くまで御巫家で預かりましょう。たぶん、お 母さんも許してくれると思うわ。大丈夫、おねーさんに全て任せて。二つの胸の膨らみは 、何でも出来る証拠なんだから♪」  そう言って、その豊満な胸を反らす。  それだけ見れば、確かに説得力がある。流石は我が義姉。  しかしなぎは、ジト眼でぼそりと耳打ちする。 「この巨乳好きのシスコン………」  失敬な。 「僕は断じてシスコンなんかではない」  なぎに鋭い一瞥を与えて異論を唱えると、なぎはふーんと意味ありげに鼻を鳴らす。 「何?」 「べーつにー」  訊くと、なぎは何とも言えない微妙な表情を浮かべた。  ――あえてそっちを否定するのか。  なぎの眼は、確かにそう語っていた。そして両腕は、自然と胸を隠すように覆う。  どうやら、なぎは僕の存在が歪んで伝わってしまったらしい。  やれやれ。困ったものだ。  しかし、このまま僕がシスコンであると思われたままでは嫌なので、一体どうすればな ぎの誤解を解けるのか思案する。  ………。 「ねェ」  なぎは、黙考している僕を暫くじーっと凝視していたが、いきなりぐっと顔を近づけて きた。 「コマちゃん。キミもしかして、怒ってる?」 「別に」  短くそう答え、席を立った。  何か疲れた。明日も学校があるし、取り敢えず風呂に入って寝よう。 「こらこら、な〜に痴話喧嘩してるの?二人とも仲良くしなちゃい」  沙羅は短くなった煙草を灰皿に押し付け、新たな酒瓶を片手に、にっこりと笑った。呂 律も怪しくなってきたし、イイ具合に出来上がるのも、そう遠い未来ではない筈だ。  へいへいと首肯すると、沙羅は呂律の回らない声で何かを言った。しかし、唐突に糸が 切れたかのように沙羅が頽れた。 「義姉チャマ、どーしたのデスカ?」  言いながら彼女の酒臭い顔を覗き込んだ。どうやら寝ているらしい。僕は溜め息を吐い て、自分の上着を彼女にかけた。  油断しきっていたその時、彼女は撥条仕掛けのように立ち上がった。完全に眼が据わっ ている。 「まあ、あなたも一杯呑りなちゃい」 「――え?」  僕は焦った。いきなり酔っ払いに飲めと言われて、一体どうするべきなのか?そもそも 酒が入った沙羅には、一切の自制が利かないので、その行動は常に僕の理解の外にある。 しかし万が一の時は、この僕が何とかせねばなるまい――かと言って、止められる可能性 は無きに等しい。尤も、止められる人間など、この世にはお袋を除けば奴しかいないだろ う。そしてそのまま呑むのもどうかと思うが、しかし、もし僕がこの場で彼女の酒を飲ま なければ、彼女の口から「私のお酒が呑めないってゆーの!!」という理不尽極まりない 台詞が出てくるコトは明白だ。  返答に窮している僕に、業を煮やした沙羅は、ぎょっとする僕を尻目に、僕の口の中に、 まだ中身がたっぷりと残っている酒瓶を突っ込んできた。  ごっくん。  口の中に流れ込んできたそれを反射的に飲み込んでしまった。  美味い。これはイケる。  美酒に心を奪われた僕は、調子に乗ってもう一口、もう一口とそれを流し込み、遂に飲 み干してしまった。 「くぅううう、美味――あ、れ?」  素っ頓狂な声を発して、その晩に膝をつく。  ど、どろどろやん。  眼の前の情景が揺れて見えた。そして何処からともなくブチっと何かが千切れる音がし、 突如、視界が閉ざされた。 「きゃぁあああ――――――――――――――――――――――――――――――っ!」  なぎの声が耳朶を打ち、辛うじて薄れゆく意識を繋ぎ止める。だが、それだけだ。最早 身体全体の感覚が無くなり、指一本真面に動かすコトが出来ない。  もう、駄目だ。  やがて僕は――  ――眼を開き、ゆっくりと上体を起こす。  ふと額に冷たさを感じ、手を伸ばしてみると、そこには濡れたタオルがあった。  辺りを見廻し、ベッドの脇へ眼をやると、椅子に腰掛けた人物が見えた。  少なくとも沙羅ではあるまい。奴はそんな殊勝な女ではない。  だとすれば―― 「なぎ………?」  返事は無い。どうやら眠っているようだ。電気を点けて見ると、彼女の側に水を張った 洗面器があった。手には絞りかけのタオルが握られていた。どうやらずっと側で看病して いてくれたらしい。漸くそのコトに至ると、一瞬胸が沸騰したかのように熱くなった。  ありがとう。  心の中で静かにお礼を言うと、彼女がふと眼を開いた。未だ眠たそうに眼を擦りながら も、じっと僕の方を見る。 「もう、起きても大丈夫なの?」 「うん。それと、これ、有難う」  タオルを指差して、お礼を言った。すると彼女は照れたように含羞んだ。  か、可愛い………  思わず見惚れそうになる。しかしそうなる前に、顔を背け、強引に話題を持ってくる。 「ところでサ、姉貴――さっきの女は?」 「向こうでぐっすり」  耳を澄ませば、沙羅の鼾が聞こえてきた。 「そっか」  そして、暫くの沈黙。  悪くない、雰囲気だ。だが、否、だからこそ言わねばなるまい。 「あのサ――」 「何?」 「もし、なぎさえ良ければサ、………イイんだぜ」 「え?」 「その、何だ。こう云う言い方するのも何なんだが、あんさん、何処か行く当てがあるよ うにも見えないしサ。あんさんさえ良ければ、暫くの間、ここを塒にしてくれてもイイん だぜ………」  何だかんだ言って、最後の方は口調が弱い。内容が内容だけに思わずぼそぼそと早口で 言ってしまった。  あまりの恥ずかしさに居たたまれなくなった僕は、くるりと踵を返した。  背後から何か声がかけられたようだが――きっと気の所為だ。そうに違いない。 「ま、つまりそういうコト」  振り向かずに、背中越しでそう答えると、僕はいそいそとリビングを後にした。 「ねェ」  ドア越しにかけられた彼女の声は、何処か熱を帯びていた。 「いつまで、いてもイイのかな?」  それが望みなのか、それとも唯の質問なのかは、その声色からは判らない。  但―― 「Stay here as long as you want to...」  僕は、ドア越しにそう呟いた。  そう、好きなだけ、いればイイ。  そんな囁くような応えが、果たして彼女に届いたかどうか分からない。  そして今度こそ、呼び止める声は聞こえてこなかった。