V 不良神父、いちごパフェの値段に呻く  ――3、2、1、 「――以上。はい、号令」 「起立、気をつけ、礼!」  一日の授業が終わると、学校中に覇気が宿る。生徒は皆、まるで地獄から生還したかの ように安堵の息を漏らし、漸く放課後と云う名の自由が訪れたコトを知る。  我が教室――二年四組も、実に賑やかな喧噪に包まれていた。友達とお喋りに花を咲か せる者、意気揚々と部活へ向かう者、そして帰りのショート・ホーム・ルームが終わった コトに気付かず、未だに眠っている者――  そんな中、僕はいそいそと帰る準備をしていると、 「待てい」  突如背後からむんずとお下げを引っ張られた。 「危ねェな………頸椎でも損傷したらどーすんだよ?」  振り返ると、そこには小柄な女子が仁王立ちしていた。  彼女の名前は、有栖川 ほたる――中学校以来の馴染みだ。 「ちょっと、何こそこそ帰ろうとしてるのよ?」 「別に………」  すると彼女――たるたるは、一言。 「あやしい」  そう断言する彼女の視線は訝しげで、一から百まで完全に僕のコトを疑っている。  ――何か言わなければ。  根拠も何も無く、或る意味生命の危機を感じた僕は、口早に言った。  一言だけ。 「全っ然」 「そう………」  彼女はそのまま表情無く、視線を僕から窓の外へと視線を移す。無論たるたるがそれで 納得していないコトだけは明白だ。 「………」 「………」 「………」  暫く、二人の間に沈黙が続いた。校庭の方から、時折生徒の歓声とトラックの衝突音、 そして悲鳴が聞こえてきた。  この沈黙は、はっきり言って不気味だ。 「そう言えば、コマって最近付き合い悪いよね」  たるたるは、ぼそりとそう言った。  そうだろうか?  果たしてそれを肯定すべきか、否定すべきか躊躇っていると、たるたるは物哀しげに眼 を馳せ、双眸を僅かに細める。  見事だ。  初な奴が見たら、それだけで恋に落ちてしまいそうな代物である。 「悩みがあるんだったら言って。いつでも相談に乗るから」  そう言うたるたるの声は、憂いさえ帯びていた。  僕は胸を痛め、目頭を熱くさせながら、感激――はしなかった。  たるたるの本性を知らない他人から見れば、彼女のコトを健気とでも言うのだろう。だ がしかし、少なくとも僕は、たるたるは昔からこの巧みな演技によって、相手の心情を動 かし、意のまま――とまでは行かなくとも、体よく利用させているコトをよーく識ってい る。  因みに何故僕がそんなコトを識っているのか?――答えは簡単。  それは僕も被害者だったからだ。 「ホントに?ホントに何でもないんだったら、あたしの目を見て」 「断る」 「――やっぱり、あやしい」  そう言ってたるたるは、約一秒間たっぷりと考え込み、顔付きを厳しくした。その眼に あるのは――何故か軽蔑の色だ。 「もしかして、これ?」  不安げにそう言って、たるたるは、僕の眼前に空いている方の手で、小指を突き出して 見せる。 「………はい?」  思わず間抜けな声を漏らしてしまった。別に意味が判らなかった訳ではない。意図が分 からなかったからだ。  するとたるたるは、僕の反応を一体どう受け取ったのか、 「不潔、えっち、スケベ、変態、痴漢、ロリコン、変質者ーっ!」  と速射砲の如く叫び、益々顔付きを厳しくした。  周囲にまだ人がいる中、大声で罵られ(しかも冤罪)、僕は心底困った。  恐らく彼女の頭の中では、『親が不在なのをイイコト』に、僕が女の子を連れ込んで、 『あーんなコト』や『こーんなコト』、剰えは『そーんなコト』をしている狼に仕立て上 げられているに違い無い。  ………ていうか何故に僕が不潔で変態で、おまけに痴漢でロリコン、変質者なのだろう か?  この際賭けたってイイ。この僕に、生まれてこの方、彼女がいた例なんて無い。  彼女は。  しかし、だからと言って、今ここでなぎのコトをたるたるに話す訳にはいかない。もし そんな大それたコトを言えば、こいつはこの学校が倒壊する程の大声で「少女拉致監禁( 以下略)ーっ!」とか何とかと悲鳴を上げるに決まっているからだ。だからまだ学校に通 いたい僕は、間違ってもそんなコトを言う訳にはいかない。 「あの――」 「はぁ、どーしよ。まさかコマが名前だけでなく、ホントーにケダモノだったなんて…… …あたし、まじショックだよ………」 「おーい」  掛ける僕の声には全く耳を持たず、たるたるはこちらに背を向けて蹲り、演技ではなく、 本当に泣きそうな声を漏らす。  暫くぶつぶつと何かを呟く度に、溜め息を吐いたり、頭をガリガリと掻き毟っていたが、 やがて意を決したように立ち上がった。心做しか肩が震えている。背を向けている以上、 こちらからはその表情と心情を察するコトは出来ない。 「ふっふっふ………決・め・た………」 「何か、怒ってない?」 「まっさか〜」  思わず安堵させるように言って、振り返ったたるたるは、 「全然、ずぇーんぜん、怒ってないわよお。うふふぅ?」  と、怒りと悪意、そして殺意の炎に彩られた、とっても素敵に兇悪な笑みをプレゼント してくれた。  はっきり言って、怖い。  そんなモノをプレゼントされても困るっつうの。 「じゃ、行くわよ」 「何処へ?」 「コマん家」  そしてたるたるは、全身から殺気を漂わせ、静かに間合いを詰めてきた。 「ちょい待て!たるたる、貴様まさか………」 「安心して。なーにちょっと遊びに行く、だ・け。お友達を信用しなさい」  気が付けば、たるたるはすぐ側まで接近しており、手を伸ばしていた。 「し、信用出来るかッ!遊べない位で他人ン家に乗り込む阿呆が何処にいる!?」  眼の前にいた。  僕は鞄を引っ?むと、たるたるの殺気がぐうっと押し寄せてきた。恐怖に後押しされ、 僕は踵を返し、そのまま背を向けて一目散に駆け出した。  この時、僕がたるたるから逃げ果せたのは、強運の為せる業だったのだろうか?  一時間後――  ターミネーター・たるたるの追跡を辛うじて免れた僕は、なぎを連れて、駅前にある毎 度お馴染みの喫茶店《ユグドラシル》に入った。  そして入った途端、僕は仰け反った。  因みに僕が気圧されたのは、勿論ここの雰囲気にでも、かかっていた音楽がイイ趣味し ていたからでもない。そこにいた客の幾千幾万と云う視線が、一瞬にして集まってきたか らである。  僕に向けられた視線は、何れも明確な敵意と嫉妬が含まれているのに対し、なぎに向け られているのは何れも好意的なモノばかりである。よく見るとカウンターの向こうにいる ウェイターも、皿を拭く手が止まっていた。  まあ、彼女みたいに可愛らしい女の子を連れているのだ。ならば要らぬやっかみは無理 もない。  しかし、なぎが来てから早三日、放課後は毎日ここへ足を運んでいるケド、やはりこれ だけは慣れるモノではないな。うん。 「ん、どうしたの?」 「べ、別に………」  何事も無いように奥へ進んでいったなぎは、棒立ちになった僕を振り返り、その細い頸 を傾げた。  どうやら彼女は、この端迷惑な視線に気付いていないらしい。もしかしたら、自分とい う存在が、一体どれだけ男に注目されているのか、あまり、否、全然興味が無いのだろう。  多分。  僕は何とも言えない気まずさを感じながら、彼女に続いて、店のイチバン奥の窓際の禁 煙席を取り、テーブルを挟んで座った。 「――♪」  何だかよく分からないが、ここのトコ、なぎの機嫌がイイ。取り敢えず、テーブルの上 のメニューを手渡す。 「どれにしよっかな〜♪いちごパフェもイイな。マロンケーキも………」  正面では、なぎがその大きな眼に無数の星を浮かび上がらせて、メニューを眺めている。  暫くそれに見惚れていたが、メニューに印刷された文字が眼に飛び込んできた瞬間、稲 妻と共に緊張が走った。  いちごパフェ――¥780。  高!  僕の記憶が正しければ、昨日まではもっと安かった筈である。  多分。  一応表面上では普通を装ってはいるが、頭の中では音速を凌駕する速度で計算が行われ ている。しかし、そんなコトは露知らず、なぎは、意外に素早くウェイターを捕まえ、矢 継ぎ早に注文した。 「いちごパフェにマロンケーキ、あとレアチーズにプリン・ア・ラ・モード、それとココ アムースにレモンアイス、あとあと特製スウィーツに………」  ちょい待て。 「――以上でよろしいでしょうか?」 「はい?」  お、終わった………  オーダーが終わると同時に、僕はテーブルに突っ伏した。それからウェイトレスの後ろ 姿を見送りながら、伝票に印刷されし数値を見て、思わず呻いた。  九千九百五十四円(税込み)。  福沢 諭吉サンの肖像画が、眼の前を羽撃いていった。  待って、お願い、行かないで。 「楽しみだね?」 「うん………」  心底楽しみのなぎに対し、僕は再び伝票を見て呻いた。きっと頭上には縦線が並び、広 い背中には哀愁さえ漂っているコトだろう。  ま、男はみんな女の奴隷なんだし、別にイイんだケドね。そう、女に貢ぐのは男の甲斐 性ってモノだ。ははは。はふぅ……… 「――イイねェ」  不意になぎが、吐息混じりに言った。大きな瞳には、何故か羨望と哀しみが漂っている。 「何が?」  訊くと、なぎは「普通の生活」と答えた。 「普通の生活――ねェ………」  如何にも興味無さそうに言うと、なぎは馬鹿にされたとでも思ったのか、唇を尖らせた。 「何だよぅ。キミは普通の生活に憧れたりしないのかい?」 「………」  普通、ねェ。  思わず考えてしまう。選りに選って、僕みたいな一般常識人を捕まえて、あろうコトか 普通を訊いてくるとは。 「俺にとって、これが普通の生活なんだケド」  素直にそう答えると、なぎは困った顔をした。取り敢えず、それに構うコト無く、僕は 続けた。 「でも、なぎの言う普通とは違うのかな?」  言うと、なぎは果たして明確なヴィジョンでもあるのか、暫くそのまま唸り、葛藤して いた。やがて意を決したように口を開いた。 「友人と遊んだり、デ、デートしたり、そんなのじゃないかな?」 「ふぅ〜ん………」  特に言うコトは無い。  取り敢えず、会話を続けなければ。  そう思った矢先、唐突になぎが口を開いた。 「あのね、実はボク、家出娘なんだ」 「ふむ」  それは或る程度予想していたので、別に驚きも何も無かった。  なぎが家出娘――それは十分現実的で、納得のいく告白である。彼女は、学校に行って いる訳でもなく、家にも帰らず、バイト(二、三ヶ月ほど前に馘首になったらしいが)に 精を出している。これで家出娘でなければ単なるフリーターだろう。  たった一つの要素を除けば、の話だが。  僕は、何も言わずに次を待った。 「ママがね、今度再婚する、て………」  そこまで言って、なぎは急に蹲った。  それからぽつぽつと呟いた言葉を要約すると、彼女の母親――エリさんは未亡人で、今 度再婚するらしい。何でも相手はエリさんが暴漢に襲われているトコを助けた生命の恩人 らしい。それで今度家と土地を売り払い、新しいトコで生活をしようというコトになった のだが、なぎは大反対。何でも彼女達の家と土地は、今亡き何とか氏が死に物狂いで手に 入れたらしい。彼女にとっても想い出の有る場所らしい。しかし、それなのに想い出と共 にそこを捨て、見知らぬ土地で何処の誰とも知らぬオジサンと一緒に生活するというのは、 彼女には耐えられなかったらしい。  まあ、無理もないが。 「それでボク――」  不意に傍らに人影が生じた。 「お待たせしました」  会話に滑り込んできたのは、ウェイトレスだ。 「――お待たせしました。いちごパフェ(780円税抜き)にマロンケーキ(680円税 抜き)、レアチーズ(580円税抜き)でございまーす」 「おお!」  テーブルの上にパフェと二種類のケーキが並び、なぎは喜悦の声を上げながら食らいつ く。大きな瞳には、何処かで見たような星が無数に浮かんでおり、おまけに落涙までして いる。  やれやれ………  しかし、ここで困ったコトが一つ。  それは別に、僕の分のケーキとパフェまでなぎが食べていると云う些細なコトではなく、 このままでは話が出来ないと云うコトだ。実のコトを言うと、ここへ脚を運んでいるのは、 別に午後のお茶を満喫するためではなく、なぎが何時、何処で、どんな連中に、何故、襲 われたのかを訊く為に、である。そしてそれを聞いた上で、これからの行動も考えなけれ ばなるまい。  なぎがケーキとパフェを二人分(量的には三、四人分)平らげて、人心地ついた頃、早 速僕は訊いた。 「初めて逢った日の夜、なぎは追われていると言ってたケド、それがどう云う連中か分か るかい?ストーカーとか、変質者とか」  なぎほど可愛い娘だ、それならスムーズに話が繋がる。そしてそういう類の事件なら数 日あれ解決出来る。  そう、そういう類なら。  しかし、そういう類ではなく、もっと大事だった場合はどうだろうか?先ず面倒な展開 になるコトだろう。  多分。 「でさ――」 「――お待たせしました。プリン・ア・ラ・モード(680円税抜き)にココアムース( 480円税抜き)、レモンアイス(380円税抜き)でございまーす」  再びウェイトレスがやってきて、注文の品を並べる。すると大して広くないテーブルが、 忽ちいっぱいになる。 「コマちゃん………」 「?」  どうせ喜悦、感激の声を上げて、「美味しいよ〜ん?」とか何とか叫ぶんだろうな、と 思いつつ小首を傾げる。 「いた」 「はい?」  思わず聞き返してしまった。  虫歯にでもきたのであろうか? 「いた、んだ………」  なぎは俯いて、静かに言った。心做しか震えているように見える。 「ボクを、追っている人………」 「なぎを、追っている人………」  僕はゆっくりと店内を見回した。休憩中らしいビジネスマン、一服付けている中年男性、 真剣な顔付きで語り合う男女−−眼に写る人々は、皆、この日常に溶け込んでおり、一見 誰が敵なのか判らない。 「だ――」  「誰?」と訊くよりも早く、なぎは口に人差し指を当てて、何やら書き込まれたナプキ ンを差し出してきた。  そこには、芸術的な丸文字でこう書かれていた。 『ウェイトレス。長い髪の、ちょっと美人で、ちょっと背が高くて、ちょっと胸が大きく て、ちょっと腰がくびれた』  後半の、『ちょっと胸が(以下略)』と書かれた一文は線で消してあった。兎に角背 が高くて、髪が長くて、美人(なぎから見て)で、ナイス・バディらしい。  しかし、美点ばかり並べているのは何故だろうか? 「――お待たせしました。特製スウィーツ(680円税抜き)に………」  本日三度目のウェイトレスの登場である。 「――ご注文は以上でよろしいでしょうか?」  そう言って、彼女はにっこりと笑う。シャギーが入った長い髪は腰まで届いており、切 れ長の眼が印象的な、きりりとした顔立ちの美人――如何にも頼れるおねーサマって感じ だ。推定身長百七十四、五センチ――女性の平均身長からすれば高い方だろう。スリーサ イズは上から八十五、六十、八十四――八十五点、合格。  僕は、吟味するなり、目配せで、「このおねーさんか?」と訊くと、なぎは小さく頷く。 「それでは失――」 「すいません。追加してもイイですか?」 「はい。何に致します?」 「おねーさんの、命」  僕の悪役そのものの台詞を聞くや否や、ウェイトレスは、一瞬顔付きを厳しくした。し かし、すぐにそれを掻き消し、元の顔で努めて営業スマイルを浮かべる。 「お客様、そのよう――」  と、何やら言おうとしたが、それに構わず手元にあったナイフを一本、喉元目掛けて投 擲する。  これは一種の賭けだ。もし訓練されている者ならば、躱すなり何なりするだろうし、そ うでなければ喉にナイフが刺さって死ぬだけだ。もっとも、なぎが嘘を吐いていたり、間 違っていたりする可能性も少なからずあったのだが、それはまあ御愁傷様としか言い様が 無い。  投擲したナイフは、一瞬喉元に突き刺さったかのように見えた。しかし手応えは無く、 実際に貫いたのは、中身の無い制服だけだった。  どうやら、訓練された者だったらしい。  僅かに安堵の笑みを浮かべながら、なぎを連れて疾駆する。 「釣りは取っとけ!」  レジ打ちのおっさんに壱万円札叩き付け、僕等は店を飛び出す。既に視界には敵のおね ーさんが収まっており、その足取りに躊躇いは無い。  行き交う通行人を巧みに避けながら、敵のおねーさんは逃げ、それを僕は追った。敵の おねーさんは、流石に訓練されただけあって脚力も半端ではない。見失ったら二度と見付 けられない気がする。  故に―― 「ロック・オン」  と、小脇に抱えたなぎの声を合図に、素早くポケットから小銭を一枚掴み出し、敵のお ねーさんの脚に照準を合わせる。 「ファイヤー!」  と、小脇に抱えたなぎの声を合図に、周囲の通行人に意識を散らされるコト無く、小銭 を弾いた。  指から放たれた平成十三年の十円玉は、男の頬を斬り裂き、女の肩口を嘗め、老人の股 下を掻い潜って突き進んだ。そして丁度地面から離れようとした右足の脹脛に食らいつき、 皮膚を突き破り、肉に食い込んだ。その衝撃と痛みに敵のおねーさんはつんのめり、転け たか。しかし、彼女と僕の間を数人が通り過ぎると、その僅かな間に、彼女は姿を消した。  一体全体どういうコトだ!?  なぎを小脇に抱えたまま、今の今まで敵のおねーさんがいた場所に立ち、周囲を見回し た。  そして、一人の男を見付けた。  通行人が行き交う中、そいつは悠然と佇んでいた。広い鍔に一条の切れ目が走った、ト ンガリ帽を被り、その下から伺える顔はまるで人形のように端正だ。初夏である今時分に も拘らず、インヴァネスのコートを着込んでいる。  そして眼が合うと、薄気味悪く口元を弛めた。  嗤ったのだろうか?  しかしすぐに無表情に戻ると、軽く顎を引いて、踵を返した。  ついてこい、というコトか。  ――上等だ。  ――十分程歩いただろうか。  男は、僕となぎを、通りから離れたビルに囲まれた路地裏へと導いた。どうやら他人に は聞かれたくない、後ろめいた話があるらしい。  まあ、それに関してはこちらも人のコトは言えないのだが。 「――そう言えば、自己紹介がまだでしたね」  背を向けながら、まるで今思い出したかのように彼は言った。 「私の名は、狗神 蔵人――ボディ・ガードを生業としています」 「俺の名は、御巫・セバスチャン・狛彦――一身上の都合で神父をやっている」  互いに名乗り合うと、男――狗神は微かに眉を上げた。 「おやおや――貴方がかの名高き、神父様ですか?」  狗神は態とらしく驚きを表現した。  ………しかし、何がどう名高いのだろうか? 「ならば話は早い。神父・セバスチャン」 「そう呼ばれるの嫌いなんだケド」  一応言ってはみるモノの、案の定彼は構わず続けた。 「悪い事は言いません。彼女――辻 梛叉に関わるのは止めなさい」 「は?何を言ってるんだ?て言うか、狗神サン――あんさん、この娘を知っているのかい ?」  つい訊くと、狗神は掌を突き出した。 「おっと、ここから先は機密事項なので言えません。強引で申し訳ありませんが、兎に角 彼女を――」 「断る」  彼の申し出を断固、と言うよりは条件反射的に遮った。 「ほう………」  しかし狗神は、全く動じるコトが無かった。まるでこうなるコトを読んでいたかのよう に。 「困りましたね。申し出に応じてくれなければ、私は実力行使という苦渋の手段に訴えな ければならない。この業界はただでさえ厳しいのです――解るでしょう?」  狗神は態とらしく、哀しげに言った。苦渋、という部分には、それを楽しんでいるよう な響きがある。質の悪いコトに、どうやらこの男は、この手の展開になるコトを望んでい たかのようだ。  全く、巫山戯た野郎だ。 「大人は大変なんだな」  僕が呟くと、狗神は、我が意を得たりとばかりに笑う。 「そうでしょう?丁度良い機会だから、社会の厳しさというものをしっかりと学んでいき なさい」 「そうさせてもらうよ」  御座なりに言って、なぎを横目にする。なぎは、何故か何かを期待する眼でこちらを見 詰め、小さな拳を握り締めた。 「頑張って。応援してるから。それでもし、もしもキミが勝ったら………」  言いながら、なぎは、ぷしゅ〜と頭から湯気を立てて赤面した。最後の方になるにつれ て、声は次第に小さくなってゆく。やがて口を横一文字に引き結び、そのまま小さくなっ て顔を伏せた。 「何を言うかと思えば」  そう言って、なぎの頭をくしゃりと撫でる。掌の下で、なぎが小さく呟く。 「絶対負けちゃ、ダメだからね………」  「応」とだけ言って、静かに前進する。背後から向けられる視線には、多大な不安と疑 念、そして一抹の信頼が宿っていた。 「安心しろ」  僕は、振り返らずに、ニヤリと笑った。視界には、既に構えている狗神が捕らえられて いる。 「敗けたコトは、無い」  この自信と自負に満ちた言葉に、果たしてなぎはどう思ったのか。背を向けている以上、 それは判らない。  しかし―― 「行くぜ――」  宣言と共に、僕は狗神との距離を奔り出し、それに呼応するように狗神も間合いを詰め てきた。  暗き路地裏に、乾いた銃声が谺した。 W 不良神父、飛ぶ  それに気付くと、僕は間合いに踏み込むギリギリ一歩手前で急停止した。そして狗神を 視界に入れながら、じりじりと元いた場所――なぎのトコへと後退する。 「何の積もりだ?」  揶揄を込めて訊くと、 「御巫君、さっき言ったばかりじゃないですか。『この業界はただでさえ厳しい』と」  狗神は、揶揄など歯牙にもかけずに答えた。 「だから子供が相手でも、容赦なく袋叩きが出来るって訳か」  呟いてから、ぐるりと周囲を見回す。正面に立つ狗神を除く、物陰に隠れた八人の男が、 僕となぎを囲んでいた。何れもスーツを纏っているが、どう贔屓目に見ても堅気ではない。 はっきり言って顔がヤクザだ。  怖い。  しかし、他人を外見で判断してはいけない。それは彼等の身の熟し方を見れば、唯のヤ クザではないコトがよく分かる。恐らく彼等は、 「あんさん達、《ダンピール》か?」  訊くと、狗神は嘘臭い驚きを浮かべた。 「おや、ご存じですか?」  《ダンピール》とは、《テュール》が創設した、《吸血鬼狩り》の異名を持つ傭兵部隊 だ。そこには《レーディング》、《ドローミ》、《グレイプニル》と状況に合わせた三つ の精鋭部隊が存在する。現在は《テュール》自らが指揮を執っており、《O.D.K》に 雇われているという。  まあ、テュールのアホはどーでもイイとして、問題は《O.D.K》だ。  《O.D.K》とは、社長である京極 天斗氏を頂点とする、日本でも五指に入る有数 の人材派遣会社である。  しかし、それは飽くまで表向きの顔である。《O.D.K》には、一般人が知り得ない であろう裏の顔が存在する。  奴等は、何をとち狂ったのか、ロキを《主》として崇拝するという最悪の愚行に走り、 日々医療発展の名を借りた様々な動物虐待を行っている。当然その為には莫大な労働力と 金が必要で、奴等はそれを手っ取り早く手に入れる為に、法の網を掻い潜って拳銃や爆弾、 ドラッグに密造酒は勿論のコト、挙げ句の果てに提供者不明の臓器等を横流し、と或る消 費者の為に密航の斡旋、人身売買を手掛けている。他にも政治的な暗殺や誘拐、マフィア やヤクザの手助けやボディ・ガードなども請け負っている。  何れもどんな汚れ仕事も辞さず、そして目的を果たすためなら如何なる手段も問わずに 実行する、とんでもない大馬鹿野郎共の集まりだ。  しかし、奴等の恐ろしいトコは、その内容ではなく、その馬鹿げた規模にある。《O. D.K》はアメリカ合衆国の某所に存在する《染血の幻想》を本拠地とし、世界中に大小 合わせて千を優に越える組織が点在している。身近なトコで言えば、関東だけでも十を越 える組織が存在し、その中でも《ニフルヘイム》、《ウトガルド》が有力だろう。  尤も、こいつらとは二度と関わりたくなかったのが………乗り掛かった船だ。致し方あ るまい。 「まあな」  ぶっきらぼうに言って、拳銃を撃っ放す。  狗神であろうと、《O.D.K》だろうと、何だろうと、僕の邪魔をする以上、生かし ておく必要は無い。  故に、躊躇いなど無い。  銃口から飛び出した弾は、旋回しながら狗神に突き進む。しかし、狗神は身動き一つせ ずに、その場に佇むだけだ。  躱す様子は無い。  恐怖で金縛りに遭っている――訳ではない。その証拠に、彼の顔には余裕の笑みさえ浮 かんでいる。  果たしてそれは、一体何を意味するのだろうか?――その答えは、一瞬後に齎されるコ トになる。  暗き路地裏に、乾いた銃声が谺した。 「………!」  紫煙の立ち上る銃口の向こう側で、彼は口元を歪めた――嗤っているのだ。それを見て、 僕は驚愕した。彼が五体満足で生きているコトにではなく、如何にして着弾を回避したの か、である。 「何か、しましたか?」  僕の驚いた顔は、余程面白かったに違いない。現に彼の顔に浮かぶ嘲弄は益々度合いを 増している。  実に不愉快だ。 「別に」  蟠りを胸の中で押し殺し、素っ気無く言って、残る弾丸を全て、狗神に向かって撃っ放 す。  銃声は、五回。  しかし、結果に違いは無かった。  銃口を飛び出した五つの弾丸は、何れも確実に彼の顔面へと向かっていった。しかし、 その秀麗な顔面を破壊する瞬間――突如としてその姿を消した。 「怖いな」  俯きながら、呟く。その言葉に、少なくとも嘘はない。弾丸のシャワーに耐える程のタ フな人物はいたが、まさかこの世に、亜音速の弾丸を、防弾マスクも着用せずに防ぐコト が出来る男がいるとは思わなかったからである。しかもその方法が、判らないとなれば尚 更のコトである。 「ま、想像はつくケドな」 「つくんですか」  軽く言うと、さも楽しそうに狗神は笑う。そして何を思ったのか、彼はそのまま腕を組 み、近くの壁に寄り掛かる。こちらへ向ける視線は、観察するよう思える。  彼の思惑を悟ると、僕は思わず口の端を釣り上げる。  嘗められたものだ。 「なぎ」  振り返り、なぎを庇うように背後に引き寄せる。 「俺から離れるなよ」 「ボ、ボクも闘るよ」  なぎは勇気づけるように言って、気丈にも笑みを浮かべて見せる。しかし言外には、「 でもこっちはか弱い乙女なんだから、命懸けで護ってよね」と云うニュアンスが含まれて いる。 「応。危なくなったら頼むわ」  頷くと、それを合図にしたかのように八人の男達が襲いかかってきた。  ――馬鹿め。  既に間合い入ってきている彼等――ではなく、左右に聳え建つビルの壁を見て、思わず 北叟笑む。右は雑居ビル、左は不動産会社で、外壁には特に何も無い。道の幅は、約三メ ートル。 「よし」  背後にいるなぎを抱え、僕は雑居ビルの壁際まで下がり、不動産会社の壁に向かって走 った。 「ねェ」  走る際、障害となった真っ正面の男を蹴り倒すと、なぎが声を掛けてきた。不動産会社 の壁まで、約一メートル半。 「キミ、今とんでもないコト――」 「まさか。とっても素敵な、コト、サ!」  なぎの言葉を最後まで聞いてはいなかった。  なぎを両手で抱えた状態で、地面を蹴り上げ、空中で身体を捻る。そして壁を蹴り付け る。 「ねェ」  再びなぎが声を掛けてきた。既に跳躍は五回を数え、高さに至っては地上十数メートル に達している。 「何、だ!」  雑居ビルの壁を蹴り付け、左四十五度へと跳ぶ。 「コマちゃん――キミ、どーして飛べるの?」 「今まで黙っていたケド、中学校時代はサーカス部に入っていたんだ」 「説明になっていな〜い!」  なぎはジタバタと暴れたが、今は僕の絶技(三角跳び)について語っている場合ではな かった。何故なら、なぎが暴れた所為で、空中でバランスを崩し、落下しているからであ る。 「なぎのお馬鹿ぁあああ―――――――――――――――――――――――――っ!!」 「ごめんなさぁあああ―――――――――――――――――――――――――いっ!!」  一瞬の浮遊感の後、それぞれ叫びながら、猛スピードで落下する。落下する際、二人ほ ど巻き込んでやった。彼等は、頭上から高速で落下してきた、体重九十一キロを誇る僕の フライング・ボディアタックを真面に食らい、陥没した地面の中で挽き肉と化す。  イイ気味だ。  地面から足を引っこ抜き、なぎの姿を求めて、周囲を見回す。頼むから、受け身が取れ ずに死亡というコトだけは勘弁して欲しい。  だが、僕の心配をよそに、彼女は無事だった――と言うか、武装した四人の男達を相手 に闘り合っていた。  落下の速度を利用して、正面の男の頭頂を肘で打ち抜き、着地を待たずに、宙で男の股 間部を蹴り上げる。天をも衝く前蹴りを食らった彼は、絶叫を上げながら、宙を舞った。 先のダメージとなぎの膂力を考えれば、彼の起き上がる可能性は無いに等しい。しかし、 男の意地を見せ、彼は倒れる寸前にナイフを投擲する。色加減からして、毒が塗ってある に違いない。眼前に迫ってきたナイフを、なぎは紙一重で躱しつつキャッチする。そして 倒れる男の急所を粉砕し、振り向き際に襲いかかってきた男の肩口にナイフを深々と突き 刺す。そして透かさずに手首を捻り、ねじ込んで引っこ抜く。そして――  見たトコ、まだまだ全然余裕そうである。  それを見て、僕は軽く口笛を吹いた。 「何だ、なぎ――あんさん結構やるじゃん♪」 「もう、それってか弱い女の子にゆう台詞?」  憤慨しながらもなぎは残る最後の男の小指を取り、圧し折る。男が痛みで一瞬停滞する。 しかし、根性で殴りに行く。 「そういうコトか!」  なぎの作戦を読んだ僕は、背後から男の襟首掴み、引っ張る。男の拳はなぎから遠退き、 虚しく空を切る。 「そうゆうコト!」  なぎは滑り込むように間合いを詰め、男の片足を取ると、即座に倒した。やがて寝技に 引きずり込まれた男は、僕に頸を絞められ、なぎに足首と膝を取られる。頸動脈と気道を 絞め上げられ、呼吸不能の中、彼の足はアキレス腱固めを掛けられ、伸び切ったトコを捩 じられる。次の瞬間、音を立てて靱帯が損傷する。 「イェーイ!」  八人の男達が戦闘不能になったコトを確認し、喜びのあまり手を叩き合う。 「《悪魔の魂を宿す神父》………それに辻 梛叉。噂通りの戦闘能力ですねえ」  今の今まで僕達の闘いを観戦していた狗神は、やはり楽しげに褒めたたえた。  尤も、こいつに褒められても嬉しくも何ともない。 「しかし初めて組んだにしては、中々堂に――」 「狗神――手前ェも随分と神経太ェ野郎だな。こっちは二人掛かりなんだぜ?」  遮ったその言葉に、狗神は驚き、やや遅れてなぎが僕と狗神を交互に見比べる。やはり 驚きは隠せないようだ。 「面白い」  奇しくも二人の口からは、同じ台詞が漏れた。 「なぎ」 「コマちゃん………」 「ああ、大丈夫。判ってる」  なぎの忠告を、僕はやんわりと遮る。  そして、奔り出す。 「来るよ」 「大丈夫」  僕は安心させるように言った。 「剣術家と闘り合うのは、初めてではない」  そう。狗神の武器は、居合。抜刀術とも言われ、鞘走りによって加速した剣撃を以て、 相手を仕留める、一撃必殺の剣である。完成した流派としては、現代よりも四百年以上も 昔、林崎 甚助が祖とされる。  尤も、現代の世では侍も消え、達人と呼べるような使い手はそうはいないが。  しかし、狗神は現在に残る、数少ない剣の使い手だった。それもとびっきり――その伎 倆は、至近距離で発泡される銃弾を、剣一本で防ぎ切ってしまうほどである。 「勝負だ、狗神!」  真っ向から突進し、間合いを詰める――但し、居合の間合いだ。 (御巫君。圧倒的に不利な素手で、君が何故勝利を?ぎ取り続けてこれたのか?それは君 が、相手に刀を振らせ、それを躱し、懐に入る事が可能だからだ。無論理論上不可能では ない。何故ならば、刀は見えているのだから。故に当然その殺傷圏内が判る)  狗神の眼が、そう言っている気がする。 (しかし、刀は君の手足よりも遥かに長いのですよ。しかも今回は刀が見えないので、長 さが判らない。このまま来れば、斬りますよ。さあ、どうします?)  そんなのは、決まってる。  柄を握った瞬間、彼の指を攻撃すればイイ。例え刀身が見えなくても、手だけは隠しよ うがない。  しかし、その判断は詰めが甘かった。間合いが詰まる、数歩手前――居合でも素手の間 合いでもない距離で、狗神は抜刀した。  届く筈がない。  そう思った。けれど――  まさか、奴の剣撃がこちらに届くとは。  別に剣が伸びた訳でも、漫画みたいに真空波や気魂の刃飛んできた訳ではない。刀身が、 柄に仕込まれた撥条によって飛ばされたのである。高速で飛んでくるそれの軌道は、正確 に僕の顔面を貫いている。  躱せねェ!  ネオンの光をその時通った電車の窓が反射し、路地裏を数秒間照らす。その時、壁には 剣で刺し貫かれた僕が映った。やがて電車が通り過ぎ、光が途絶え、路地裏に闇が戻る。 衝撃に吹き飛ばされ、僕の身体は湿ったアスファルトの上に、叩き付けられる。 「コマちゃぁあああ――――――――――――――――――――――――――――ん!」  なぎの悲壮な叫びが路地裏に谺した。 「ほふ?ほんはは?(応?呼んだか?)」  寝たまま返事をすると、なぎだけでなく、狗神までもが、こちらに眼を向けてきた。こ れだけ注目を浴びると、ちょっと気恥ずかしい。 「い、一体どう………」 「ほっほはっは!(おっと待った)!」  撥条仕掛けのように起き上がり、機先を制す。そして口に銜えている物体を見せると、 彼等は思わず眼を見張った。 「――もしかして」 「ほほほーひ(その通り)」  平然と応じながら、銜えた物体は吐き捨てる。吐き捨てられたそれは、カランカランと 音を立てて地面に転がった。  刃である。  最早言うまでもないが、刃が眼前に迫ってきた瞬間、それを躱せないと覚った僕は、そ れを口で受け止めるコトで窮地を切り抜けたのである。まさに一瞬の早業とはこのコトで ある。尤も、僕からすれば大道芸でしかないのだが。 「それにしても柄に撥条を仕込むなんて、手前ェそれでも剣術家か?………と言いたいト コだが、傭兵部隊のボディ・ガードだったよな」  ぼやきながら刃を踏み折ると、僕はゆっくりと狗神に向き合った。 「辻無限無双流柔術」  狗神が呟いた。その顔に表情は無い。その時、僕となぎは、ぎょっとした顔で彼を見た。  狗神が語り出す。 「現代より千年以上も昔、歴史の影から一人の男が表舞台へと姿を現しました。男の名は、 辻 一。彼が辻流の創始者に当たります。  彼を初めとし、辻の名を継ぐ者は自ら戦場へと降り立ち、戦場で生き残るための術―― すなわち素手で人間を殺害する業を極めんとすべく、千年という永い刻をかけて練ってき た。そしてある戦の中で、それは完成した。打撃有り、投げ技有り、関節技有り、絞め技 有り――のまさに何でもありの総合戦闘術。それが現在の『辻無限無双流柔術』です。  曰く、柔術を超えた柔術――  曰く、総合格闘技の完成形――  曰く、地上最強の格闘技――」  淡々と、まるで調査報告書でも読み上げているかのような口調である。 「そして、現代に至るまで千年間、ただ一度も敗北を知らない――と」  第三者の立場からすれば、まるで娯楽小説、もしくは漫画の世界である。  僕はそのまま、黙りを決め込んだ。 「しかし、そんな"素晴らしい"流派、いえ、彼等が何故知られていないのか――  答えは簡単――辻流はその性質上、あまりにも危険過ぎるため、表へ出ることが赦され なかったからです。  特に銃火器や核兵器が存在する現代の世の中では、時代遅れもいい所。下手に出しゃば れば、体のいい見せ物に堕ちるだけ――  彼等は"繁栄"より"誇り"を選んだのです。  以来、彼等は細々と続けてはいるものの、現在では逃れることの叶わない滅びの運命を 辿り、幻の存在へとなりつつある。そしてその伝説だけが、語り継がれています」  僕は何も言わず、唯続きを待った。 「そしてそれが今眼の前にある」 「………」 「しかし、腑に落ちない事が一つ。辻流は一子相伝の筈。なのに何故、使い手が二人もい るのか?」  それは僕にとっても疑問だ。だが、そんなコトはどうだってイイ。 「もっとも、どちらが本物でなのか、偽物なのかは私には判りませんがね」  溜め息混じりに、狗神は言った。 「まあどちらにしろ、その二人を同時に相手するコトなど二度と無いと断言出来ます」  ゆらりとその身体に闘気が立ち上る。彼の表情が変化するにつれ、闘気が漲ってゆくよ うに見える。或いは、その逆なのかも知れないが。 「――狗神 蔵人、参る!」  言うなり、狗神は十メートル近い距離をゆっくりと詰めてきた。制空圏が触れ合った途 端に来る。通常複数を相手にする場合、速攻で一人ずつ潰してゆくのが定石だ。人間であ る以上、多面攻撃は必ず隙を生み、そこに付け込まれれば余程の実力差が無い限り、最後 には敗けるからだ。  さて、狙いは僕か、それともなぎか――  答えは、決まっている。 「シャッ!」  自ら距離を詰め、制空圏が触れ合ったトコで打ち合いが始まる。やはり、相手には如何 なる選択権も与えたくはない。  掌底を見せ技にして、顎狙いの左のショート・アッパーを放つ。しかし狗神は掌底を最 初から無視して一歩前進し、ショート・アッパーを屈んで躱し、鼻柱狙いの頭突きからの 連絡技で金的狙いの膝を放――とうとして、瞬時に膝を引き、一回後方へと跳んで距離を 取る。そうしなければ、先程のショート・アッパーからの連絡技である打ち下ろしの肘と 右ストレートを食らっていたからだ。残念、とか思っている内に狗神がタックル――否、 柔道で言うコトの双手刈りで両足を刈りに来る。しかし、僕は動かずにただその時を待つ。 狗神にも次のアクションが判ったのだろうが、彼はそれでも突っ込んできた。  三、二、一……… 「哈!」  狗神がこちらの軸足に手をかけた瞬間に、顔面狙いで超低空アッパーを放つ。この行動 を読んでいた狗神は、些かも慌てずにその拳を?み取り、剰えその勢いを利用して跳躍し、 空中前方回転をしながら頭上から踵を落としてきた。 「甘い」  聖門(頭頂部)に迫ってきた踵を上段十字受けで凌ぎ、そのまま一歩踏み込んで、宙に いる狗神の体勢を崩し、地面に放る――寸前で残っていた踵を叩き込まれる。  ――踵落としの二段蹴りだと!?  予想外の攻撃に僕は驚きを隠せなかった。幸い肩口で済んだから良かったものの、もし 叩き込まれていたのが鎖骨だったならば、腕一本が死に、今頃は更なる苦戦を強いられて いたに違いない。強引に狗神を放り、彼が立ち上がるよりも早く蹴り付けに行く。しかし、 放った蹴りは空を虚しく切る。落下の際、狗神は両手を地面につき、僕が彼の顔面目掛け てローを放った時、彼はこの時を待っていたと言わんばかりの絶妙なタイミングで自らの 身体を宙に押し上げる。そしてそのままこちらに蹴りを放ってきた。眼前に迫ってきた靴 裏を受け流そう――とした瞬間、突如手首を?まれ、同時に奴の股が開いた。  ――飛燕十字固め。  脳裏に技名が閃く。その技は、相手の手首を?み、相手が反射的に腕を引っ込めようと した瞬間に跳躍し、相手の顎に足を引っ掛け、そのまま?んだ手首を返して肘関節を極め る技である。  真面に食らえば、折れる!  咄嗟に手を引き、彼を放すと、彼は再び逆立ちの状態で着地し、そのまま顔面に向かっ て蹴りを放ってきた。 「あんさんは、いつからカポエイラ使いになったんだ!」  眼前に迫る蹴りを再度躱し、奴の股座目掛けて掌底を放つ。このまま奴のブツを握り潰 せば、いい加減この面倒な仕合も終わるコトだろう。  ?んだら、捻る――今まで幾千幾万の対戦相手が、これで敗北を喫しているのだ。男で ある以上、この死にも匹敵する痛みに耐えられる道理が無い。  十七年間、何千何万ダースと繰り返してきたこの動き――消して外す訳が無い、そう確 信していた。  しかし、奴は躱した――否、破った。  空を、切った。  あまりの手応えの無さを感じている暇も無く、首筋に衝撃が襲ってきた。交差した瞬間 に狗神が、膝を折り曲げ、膝を折り曲げ、踵を落としてきたのだ。 「あんさん、今さっき、ブツを原ン中に隠しやがったな!」  首筋を擦りながら、怒鳴りつける。しかし狗神は、にやりと笑うだけで、何も答えない。  ――釣り鐘隠し。釣り鐘、つまり人体最大の急所であるブツを指で恥骨の中に隠してし まう秘技である。  膝が落ち掛けた僕は、それでも再び肘を狙われないように腕を引き、宙にある無防備な 狗神の頭を蹴りに行った。  しかし、それこそが奴の狙いだった。  僕が蹴りを放ち、一本足となった瞬間、奴は足で裸絞めを極め、自ら後方へと飛ぶ。ど うやら狗神は、やるつもりらしい。  下手に耐えれば、頸が?げる。かと言って自ら跳んでも、手や足が着くよりも早く頭を アスファルトに叩き付けられる。仮に間に合ったとしても第二、第三の連続だ。狗神の跳 ぶ速度は異常に迅いし、いつかは捕えられる。  ならば、なるようにしかならないだろう。  他人事のように思いながら、僕の身体は宙に浮いた。頸が絞められているのにも拘らず、 何処か心地よさを感じていた。  それが不敗からの解放によるものなのか、ただ単にそういう体質なのか、それは判らな い。  尤も、後者だったら嫌だな――と思っていると、なぎの姿が眼に入った。何やらこちら へ尻を突き出して、ふりふりと上下左右に振っている。  ん?  一瞬、「尻文字か?それとも冥土の土産か?」などと場かなコトを思ったが、何故かそ の行動が引っ掛かった。既に身体は放物線を半ばまで描いているのにも拘らず、脳内に走 馬灯の如く無数の映像が乱舞する。そして一瞬のブラック・アウトの後、随分懐かしい映 像が脳内を支配する。  ――その手があった!  会心の笑みを浮かべ、中指をそこへ突き立てた――  全身に、鈍い衝撃が襲ってきた。眼を開けると、世界が横転していた――否、横転して いるのは僕か。 「――?」  頭上から、暖かい響きの声が耳朶に降ってきた。横目で見ると、なぎがしゃがみ込んで 泣いていた。  あんさんって奴は。 「ありが――」 「ぐ………っ!」  素直に礼を言おうとすると、それを遮るようにくぐもった声が聞こえた。  ――狗神である。  奴はよろめきながら立ち上がり、こちらを見下ろした。その双眸に宿るのは、屈辱と何 かに対する憎悪。 「おー、怖い怖い。夢に出てきたらおねしょしちゃう〜」  割れば柄戯けたコトを言いながら、次なる行動を考えていた。 「こら、そこで何をしてる!」  しかし、その必要も無く、狗神は踵を返した。  予想以上にダメージが大きいのか、それとも警察の声が聞こえたからなのか、それは判 らない。  しかし、最後に与えられた鋭い一瞥だけは解る。  ――また、いずれ。  確かに、狗神はそう語っていた気がする。 「どうやら、近い内に出会すコトになりそうだ、な………」