X 不良神父、大人になる 「女だった!?」  なぎが素っ頓狂な声を上げた。幸いにも家だったので、誰かの視線が集まるコトは無か った。 「ああ………」  僕は眼を逸らしながら答え、ボトルを片手に、ソファに座り込んだ。  正直、酒でも呑らないとやってられない。 「ねえ、どーして狗神が女の子なの?」  なぎは、言いながらぴんと来たらしく、ジト眼でこちらを見てきた。 「まさか、あの時に?」  なぎの視線が痛かった。  はいはい、そーですよ。 「ああ。あの時だ。あの時は、釣り鐘隠しでブツを腹ン中に隠したと思ったんだが、今考 えてみると感触が違うんだよな」  開き直って見せると、なぎは耳元で一言。 「コマちゃんの、えっち」 「ち………」  舌打ちしながら、周囲を見回す。コルク抜きが無い。更に舌打ちしながら、空いている 手の指でコルクを引っこ抜く。ポンと、イイ音がしたが、構わず喇叭飲みをする。かなり の度数だった気がするが、この際それは棚上げだ。  暫く、水のように酒を喉に流し込んでいた。気が付けば《海神の聖杯》、《雷神の鉄槌》 など、ボトルが五、六本床を転がっていた。お袋と沙羅に見られれば大変なコトになるが、 幸いお袋は北海道だし、沙羅は新しい彼氏と行っている呑みに行っている。ま、その辺は 彼女が帰ってくる前に買っておけば済むコトだ。問題無い。 「ふぅ………」  しこたま呑んでいるのにも拘らず、未だ酔いが廻ってこない。  忌々しい。  苛立ちながらも、僕は正直戸惑っていた。何にかと言えば、言うまでもなく、なぎにだ。  先ず、今回の件、未だ何がどうだか判らない。いきなり《ダンピール》と闘り合い、そ れっきりなのだ。  それに今更奴――《主》が、もう一度結着を着けようとしているとは考え難い。  それに、あの女だ。  狗神(とヤクザ)と闘り合った後、僕等は警察の眼を掻い潜って、そこを離れた。えら い遠回りの末、家路に付くと、途中で僕等を待ち受けていた女がいた。  そこにいたのは、チャラついた遊び人風の――それでもまあ、イイ女だ。なぎに睨め付 けられ中、僕は彼女と向かい合った。  女は長い三つ編みを弄びながら、こちらを見てきた。 「どーもー。初めまして、ウチ、ジョーカーいいます。以後よろしゅう頼んます。ところ でおにーさんとおじょーちゃん、あの狗神と闘り合うたんやってな」  薄紅を引いた唇から紡がれたのは、意外にも関西弁だった。 「まあな。途中で警察も来たし、まだ勝負はついてない。所謂勝負無しって奴だな」  言外に次に会った時は、確実に惨殺してやると云うニュアンスを含ませる。 「実はな、警察を呼んだのウチや」 「ほう………」  思わず拳を握り締めた。男と男――ではなく女の勝負に、こいつは水を差したのだ。そ れが一体どういうコトなのか、こいつは理解しているのだろうか?  どうお仕置きしてやろうかと思案していると、彼女――ジョーカーは、手を伸ばして僕 の肩を掴んできた。そして怯えた表情で唇を震わせた。 「――あの男には、もう関わらない方がええ」 「何故?」  胡乱げに訊くと、彼女は沈痛な面持ちで頸を左右に振った。因みに狗神が男ではなく、 女であるコトは、この際黙っておく。 「奴は、不死身にして不敗。業界ではそう囁かれとる」 「不死身は兎も角、敗けたコトが無いからと云って、どーして関わっちゃいけないんだ?」  唇を尖らすと、彼女は頸を又振った。言外には、あんさんは何も解っとらんとある。 「奴は《ガルム》――忠実なる番犬。雇われた以上、どんな命令にも従う。それ故に奴と 敵対すれば、どちらかが死ぬまで決して勝負は終わらへん」  昔を思い出すように、彼女は言った。 「ウチもそう思っとった。けど――世の中には上がおる」  そこで彼女は言葉を切り、両手で顔を鷲?むように覆った。頬と額に爪が食い込み、う っすらと血が滲む。 「仮にもおじょーちゃんを助けたあんさんだから、忠告したる。あの男に関わらん方がえ え。死ぬで。それもエグイ死に方や」  その時の情景でも思い出しているのか、彼女の顔は蒼白だ。 「あんさんの忠告は確かに受け取った」  我ながらクールに言った。すると彼女は「ホンマか」と呟く。 「けれども、狗神だろうと何だろうと、俺の前に立ち開かるならば殺すまでだ。心身共に 関節技を極めてやる」  己を奮い立たせるようにそう言い残し、僕は彼女の手を振り払った。そしてなぎを引き 寄せ、踵を返す。  その背に投げ掛けられるのは、ジョーカーの細い呟きだ。 「アホな男や。それでは、ウチらの二の舞や………」  疑問点が多過ぎる。  狗神とは、ジョーカーとは、何者なのか?――判らない。  どういう繋がりがあるのか?――判らない。  そもそもどうしてこうなったのか?――他聞、なぎに関わってしまったからだ。  そして当のなぎと言えば、右隣でこちらをじいっと見ている。 「なぎ………」 「ん、なぁに?」  声を掛けると、なぎは楽しそうな顔をこちらに向けてきた。因みに彼女もしこたま呑ん でいたらしく、彼女の脇には瓶や缶が散乱している。しかし、酔った様子は全く見られな い。  大した女だ。 「あんさんは、何者だ?」 「さあ、誰でしょう?」  なぎは、悪戯っぽく笑った。まるで、小悪魔だな。 「………」  僕は特に何も応えなかった。  こいつは、何かある、そんな気がしていた。そして、なぎには答える気が無いコトも、 判っていた。  何だか頭が痛くなってきた。酒ではなく。元々頭を使うのは得意ではない。それを無理 矢理使ったせいに違いない。そして、その内容は難解なパズルのように複雑だ。  虚空を見つめ、無い頭を捻っていると、突如なぎの明るい声が聞こえてきた。 「――何てね。そんなの、ボクが知りたいくらいだよ」  そっくり返って笑い始めた。笑いの発作だ。陽に灼けた、細い頸が揺れ動く。  しかし、やがてそれも収まり、彼女は怯えて、泣きじゃくる。  今度は泣き落としかよ。  僕は、否、男はこれに弱い。抗う術を知らず、持たない。  古より、女の泪は魔性を帯びていると云うが、それは紛れも無い事実だ。  そしてこの女は、男を動かす経穴を心得ている。  この―― 「ボクを、助けて、コマちゃん。キミしか頼れるヒトがいないんだ………お願い」  人間、男として生まれてくれば、一生に一度は言われてみたい台詞だ。  だが―― 「だから、ボクを護って」  彼女は、顔を近付けてきた。  既に泪は無い。  先の泪が幻のようだった。  しかし――  一センチ、又一センチと危険に近付いている。  それもとびっきりの。  虫が、匂いに釣られて、食虫植物みたいなモノに近付いていくのに酷似している。  頭の中では、警報が鳴り響く中、欲望と云う名の悪魔と理性と云う名の天使が壮絶な死 闘を繰り広げている。  葛藤――  判っていたコトだが、もう止まらない。"歯車"は、疾うの昔に廻り始めている。あと はもう、壊れるまで、加速するだけだ。  葛藤――  いくら思春期真っ盛りの青少年だからと云って、果たして神父としての立場をそう簡単 に捨てられるものか。  葛藤――  漸く酔いが廻ったのか、全身の筋肉が硬直しているか脱力しているのか、顔は緊張で引 き攣っているのか緩んでいるのか、最早判らない。やがて血流は逆流し、肉が爆ぜ、裡で 何かが頸を擡げる。  オマエハ、ソレデイイノカ………!!  心の中で何者かの悲壮な叫びが響く。  別の何者かが、声にならない声で、何かをカウンターする。  僕は―― 「えへへ………」  突如なぎは笑い出し、僕を現実へと引き戻す。 「――あんだよ」 「やっぱり気が合うなあって思ったの」 「あにが?」  言うと、なぎは「だって――」言いながら、僕の膝に乗ってきた。 「ボク達は互いに隠し合い、演じている。ボクが何かを隠しているように、キミは何かを 演じている。初めて出逢った時から判ってた。キミはボクに惚れてる。そしてボクも――」  なぎが僕の上に覆い被さってきた。  小悪魔になったり、捨てられた仔犬になったりと、目紛しく表情を変える、なぎ。  そして今度は女の貌だ。  思わず眼を覗き込んだ。すると、奇妙な感覚――眩暈に襲われた。そして次の瞬間、眼 の奥に存在する無数の光に眼を奪われる。  孤独に対する淋しさ、懐柔しようとする傲慢さ、そして――  汗とは別の、甘い、イイ匂いが鼻腔を擽る。 「好きだよ――」  頸に、するりと腕が廻される。そして、彼女は唇を押し付け、僕を塞いだ。  僕は、もう抵抗しなかった。  "形"は"複雑"なれど、これも『恋』なのだから――  夜が明け、今日も朝が訪れた。 「じゃ、行ってくる」 「行ってらっしゃい」  いつものように挨拶を交わし、玄関を出た。  あの後、明け方近くまで、二人は身体を重ねていた。性に目覚めたと言っても過言では ない。流石に一度目はお互いに恥ずかしがり、暫く赤面していた。しかしそれ以降はまる で貪るように、幾度も幾度も互いを求め合った。酒も入っていた上に、禄に睡眠も取らな かったので、極度の疲労と二日酔いが予想された。しかし今朝の目覚めは、何時に無く壮 快だった。全身に気力が漲り、《O.D.K》だろうが、何だろうが、全く敗ける気がしない。  そう、敗ける気がしない。 「言うだけ言って、やるだけやったから、すっきりしたんだろうな………最早無かったコ トには出来ないんだ。そう――ポジティヴに行こう」  声に出して、半ば自棄糞気味に開き直り、何時に無く、力強い足取りで歩を進めた。  そして、数時間後、彼女が攫わられるとは、この時、僕は知る由もなかった―― Y 不良神父、殴り込みをする  家に帰ると、誰も――なぎがいなかった。  寝室、風呂場、洗面所、便所、リビング、台所、と家中の至るトコを探したが、その何 処にも彼女の姿は無かった。  家中掃除が行き届いてはいるものの、とても人の暮らしている温かみが感じられず、ま るで息を潜めているかのようだ。  その場に立ち尽くしたまま、僕が玄関前に立った時に感じた厭な感じが、中に入ってか ら急激に強くなっていた。 「………」  テーブルの上に置かれた、一枚のメモがあった。それは、なぎの或る意味芸術的とすら 言える超個性的な丸文字で書かれた置き手紙だった。  メモの内容は、次の通りだ。 『はお、ボクのコマちゃんへ  ちょっと夕飯の買い出しに行ってきます。  たぶん、五時くらいには戻ってくるよ。  なぎさ  P.S ボクがいないからといって、女の子を連れ込んでイチャイチャしたり、  キミがベッドの下の愛媛みかんの段ボール箱の中に隠している、  えっちな本を読んだりしちゃ、ダメだぞ?  それじゃ』  何だ、入れ違いだったのか――  僕は安心半分、落胆半分となり、無造作にメモを尻ポケットに突っ込んだ。  それから暫く、パソコンを弄ったりして、延々と時間を潰していた。  そして、静かに彼女の帰りを待った。  なぎのいない部屋は、何処か淋しく、生活の温かみが感じられず、何となく、物哀しい 気がする。  なぎよぅ、どーしていないんだよぅ………  おーい、淋しいぞ。コラ。  買い物なんてとっとと済まして、早く帰ってこーい。  一時間、二時間、三時間………刻々と時間は過ぎ、遂に午後十時を廻った。しかし、な ぎは帰ってこなかった。  遅い。遅過ぎる。一体どんなトコに買い物へ行ったんだ。  待つ――それはここ数年間、慣れた筈の習慣であり、感覚だった。なのに、なぎが来た その日から、突如その感覚は無くなった。  高だが数日間、寝食を共にしただけなのに、いつの間にか僕の中で、彼女の存在はここ まで大きくなっていた。  畜生。  居ても立ってもいられなくなり、僕は家を飛び出――そうとした、その時、不意に電話 が鳴り響いた。  僕は一瞬焦ったが、すぐに立ち上がり、受話器を取った。 「もしもし」 『………………』  相手は無言だった。「もしもし」と訊くと、くくく、というせせら笑うような、厭な笑 い声がした。 「………どちら様でしょうか?」 『御巫さんのお宅でしょうか?』  確認する声は、聞き覚えのない、男の声だった。 「おい」  硬い声で言うと、野郎は又笑った。  何てムカつく声なんだろうか。  僕が、電話を切ろうとすると、奴は言った。 『切らない方が、賢明ですよ?』 「何故だ?」 『切ったら――』 「切ったら?」  ここで、奴は言葉を切った。流石は大人、とでも言うか、間を取る術を心得ている。  高々数秒であろうこの時間が、いつになく、長く感じた。  そして、はっきりと言った。 『女を、殺します』  外へ出ると、気が付けば、僕は《ユグドラシル》の前に立っていた。  そう言えば、以前ここは『特殊』だと語った気がする。  僕は、ドアノブに掛けられた『CLOSE』となっている看板を裏返し、『OPEN』 にすると、滑るように店内へ入った。  当たり前だが、未だ店はやっていない。しかし、喫茶店とは名ばかりのこの店は、僕を 含めた常連客や金持ち、そして何より(オーナー好みである)美女だったら、極端な話、 例え真っ昼間からでも呑める店だ。更に付け加えるならば、未成年の飲酒だけでなく、そ の他にも、色々と役に立つ。  そう、色々と、な。  店内は昼間と特に代わり映えはしない。強いて言うならば、少々薄暗くなっているトコ であろうか。そう言えば、ここで数時間前に敵と遭遇している。  まあ、そんなコトはどうでもイイが。  どうでも、な。  胸の裡で呟き、カウンターに向かう。約束の時間より少し早かったが、案の定そいつは いた。どうやらそいつは、今の今までバーテン・ケイさん(本名・藤田 恵一、三十三歳 独身)と何やら話していたようだが、こちらに気が付くと軽く手を振ってきた。 「遅くなりました」 「この私を待たせるとは、一体どういう了見だ?」  隣に腰掛けるなり、そいつは僕の顔を覗き込んできた。整った顔立ちにあるのは、切れ 長の眼に、くっきりとした鼻梁。  この中々きりりとした面構えの女性は、来栖 巴――バイト先の先輩である。  彼女――来栖先輩は、バイト先である来栖探偵事務所の所長で、数年前から随分と世話 になっている。ぱっと見凄い美人な上に、頭も良く、黙ってさえいれば、男に不自由する コトなどないだろう。  黙ってさえいれば。  実は彼女、現在に至るまでの経歴が殆ど不明で、柔道四段、剣道四段、空手四段、合気 道三段………と、そういう物騒な資格は持っているのだが、一番肝心な探偵のライセンス を持っているのかどうかが不明という困った女だ。しかも年齢もあやふやで、自称・花の 二十歳だそうだが、実際のトコは三十前後にしか見えない。他にも色々と突っ込みどこが 満載なのだが、それは言ってはいけないお約束となっている。もしそんな大それたコトを 言えば、彼女は妖艶な笑みを浮かべて、懐に仕舞ってあるモーニング・スターを音速で叩 きつけてくるに違いない。 「おい、何一人でぶつぶつと物語のナレーションやってるんだ?頁の外にいる読者が、続 きを催促してるぞ」  先輩は全く意味不明なこコトを言った。 「で、こんなトコで油を売ってていいのか?彼女――なぎさちゃんって言ったっけ?―― が例の《O・D・K》に攫われたんだろ?」 「ああ、そうそう。それで――て、え!?」  一体どうなぎのコトを切り出そうかと考え倦ねていた僕は、反射的に先輩の方へ振り向 いた。恐らく僕の隻眼は、驚愕で丸くなっているコトだろう。するとそれを見た先輩は、 それを無視して、然も可笑しそうに続けた。 「まあ、しかし。お前は女になんてこれっぽちも興味無さそうにしていたみたいだが、遂 に女を連れ込むようになったか。これでもみんな、心配してたんだぞ?絶対あいつ○○○ なんだ、って。でも、やっぱりお前はムッツリスケベだったんだな。しかもロリコンとく ればもはや極めつけの変態だな」  ――! 「そういえば昨日は凄かったな。起き立てに一発、食前食後に一発、風呂でも寝床でもイ チャつきまくってただろ。それにいくら家族が出払っているからといって、流石に『新婚 ごっこ』はヤバいんじゃないのか?あんなに可愛い娘に『裸にエプロン』とか『猫耳メイ ド』とかやらせちゃって。いや〜若いっていいねぇ。おねーさん、思わず酒の肴にしちゃ ったよ」  ――!!  ちょい待て。  僕は絶句し、硬直した。そして、茫然自失の体で呟いた。 「て、何故にそれを………!?」  先輩は、そんな僕を満足に見詰めながら、何故か誇らしげに言葉を続けた。 「今まで黙っていたけれど、私は部下の電話は勿論のコト、寝言や食事中の会話など、日 常の全てを盗聴、盗撮しているんだ」 「先輩!歴とした犯罪じゃないですか!?」  思わず突っ込んでしまった。普段漫才をやる時ならば、躊躇わずボケに立候補している 僕だが、流石に今回ばかりは突っ込まずにはいられない。予想を遥かに上回る衝撃的真実 に、僕は思わず絶句した。しかし、それの意味するコトを考えていると、流石に狼狽えず にはいられない。 「う〜………」 「な〜んちって。うっそぴょーん♪」  明るい笑顔で返す、先輩。  時間が、止まった。  一瞬の沈黙の後――  この女は、腹を抱え、その場に転がって爆笑した。  ぷち。  何処からともなく、何かが切れた音がした。恐らくは、僕のか弱い堪忍袋の尾だろう。 バーテン・ケイさん(本名・藤田 恵一、三十三歳独身)と周囲の客は、憤る僕と、笑い 転げる先輩を異世界の生物でも見るかのように、遠巻きにしていた。 「あー面白い………あ、ちょっと、落ち着けよ」  噎せた先輩は、いきなり何を思ったか、僕の手を?んできた。気が付けば、何時の間に か椅子を持って、彼女に詰め寄っていたらしい。 「――で、取り敢えず、俺の話を聞いてくれないか?」 「声が固いぞ。固いのは○○○○○だけにしておけよ。いやー、若いっていいねぇ。おね ーさんは羨ましいぞ」  下品なコトをほざきながら、先輩は悪戯っぽく笑った。  巫山戯やがって。  そんなに羨ましいんだったら、ここで酔わせて、犯っちまうぞ?  ………いやいや、そんな大それたコトをしたら、世界の涯てまで追い詰められて、確実 に殺される。この女、三千種類の関節技を駆使して、一万本以上の骨を圧し折ったって、 巷じゃ専らの噂だしな。 「まあ、それはそれとして、なぎちゃん救出大作戦のプランを考えるか」 「あ、ああ、そうだ。危うく忘れるトコだったぜ。実は――」  何がそれはそれ、だ。この借りは、何れ百倍にして返さねばなるまい――そんな思いを 胸に仕舞いこみ、僕は静かにコトの経緯を掻い摘んで説明した。  勿論、なぎの正体は伏せて、だが。  聞いている間、先輩はしょっちゅう茶々を入れてきた。そして、本来なら十分で済む話 を三十分もかけて僕が話し終えると、漸く口を閉じた。 「ふむ」  先輩は、約一秒間たっぷりと考えた。そして何を思ったか、唐突にバーテン・ケイさん (本名・藤田 恵一、三十三歳独身)を呼んだ。 「おい………」 「いーから、いーから。おねーさんに任せなちゃい」  訝しげな僕をあしらい、先輩はニヤつきながら手を振って見せた。  バーテン・ケイさん(本名・藤田 恵一、三十三歳独身)――彼は、法の網を掻い潜り、 裏社会で情報を売買している、奇特且つ特殊な人種だ。当然のコトながら、そんな彼の取 り扱う『商品』は、それだけじゃあない。  拳銃、爆弾、麻薬、密造酒、提供者不明の臓器、密航の斡旋、人身売買、売――  と、それはもう、ありとあらゆる非合法なモノ――昔から彼には世話になっている―― を請け負ってくれ、しかも結構融通が利く。『代金』やブツの価格に較べれば、喫茶店と しての一年間の売上なんて端数も同然なのである。 「しかし、こちらとて志半ばで死にたくないので、厄介事は――」 「解ってる――だから、これで」  皆まで言わさずに、僕は封筒を突き付けた。  バーテン・ケイさん(本名・藤田 恵一、三十三歳独身)は、受け取った封筒から『代 金』を取り出し、じっくりと眺め、匂いを嗅ぎ、噛んでみて、やっと納得したように懐に 納めた。実に用心深いコトこの上無いが、彼の性分なので仕方無い。  やがて、彼は親指を立てながら、熱い眼で言った。 「分かりました。『代金』をもらった以上、私も全力を尽くしましょう」  こうして、『なぎちゃん救出大作戦(発案者・来栖 巴)』は、開始された。  株式会社鳥羽商事  オフィス街の端に存在する、巨大な本社ビルだ。古くもなく、新しくもなく、ただ四角 くてでかいだけの、何の個性も無い建物だった。  そのビルの前に一人、僕は立っていた。 「何だかな………」  本日の格好は、長い黒髪をいつも通りに後ろで一本の三つ編みに纏め、黒色のカッター シャツに同色のスラックス、そして功夫シューズと云った出で立ちだ。 「何だかな………」  僕は、ビルを見上げながら、掛けている伊達眼鏡を少し上へと押しやる。眼鏡を掛けて いる人種独特の仕種だ。その際、右側に僅かな痕が覗く。上から下へと縦に走る、裂傷だ。 僕は、伊達眼鏡の下で、右眼を固く瞑っている。隻眼なのだ、昔から。 「何だかな………」  三度呟くと、僕は、ポケットに手を伸ばした。昏い闇の中、ネオンの光を受けて、それ は鈍く光る。これから紅く染まる光だ。  僕は、それを手の中で弄びながら、ビルの中へと歩を進めた。  入り口である回転扉の横には、門番宜しく警備員が八人立っている。何れも身長百八十 センチあるかないか位の長身で、質量に至っては間違い無く百キロを超えているであろう、 あんこ型の巨漢ばかりだ。その体格から、如何にも『高校時代は柔道部の主将で、全国大 会の重量級の常連』といったプロフィールが容易に想像出来る。  僕は構わず通り過ぎ――ようとして、不意に立ち止まった。警備員達は、僕に警戒の視 線を向ける。 「………」  僕は、そのうざったい視線を受け流しながら、背を向けたまま、静かに彼等に話しかけ た。 「ジャパン《O.D.K》――、《ニフルヘイム》は、ここでイイのかい?」  訊ねた途端、彼等の態度は豹変――と言うよりは、『本来の任務』に移った。  出向くなり、警備員を軽くあしらうと、僕は何喰わぬ顔でエントラス・ホールに入った。 その背後では、八人の警備員達が地を嘗めていた。何れも顔面が三倍以上に腫れ上がり、 時折仰け反りながら、真っ赤な『血煙』を吐いている。最早原形を留めてはおらず、完全 に破壊し尽くされている。  辛うじて生きている、と言うよりは、死んでいないと言った方が適切な気がする。  ぴくぴくと痙攣する四肢が、何故と、問い掛けているかのようだった。  知るか。  後日、彼等は聖ミカエル病院の花壇に放置されている所を発見され、入院した。担当医 師・信蔵 抹沙児氏の話によると、『怪我の度合いがひどく、一生障害が残ること間違い なし(笑)』――というのは本篇には全く関係の無い話である。  そして警察の調べでは、彼等は逃走中の窃盗グループ、通称・《ホルスタイン》である ことが判明したが、彼等が何故こうなったのか、という原因は遂に明らかにはならず、取 り敢えず『陽気に当てられた』という所で落ち着いた――というのは、ただの余談である。  閑話休題。  受付に辿り着くと、似合いもしない"微妙"な化粧をした受付嬢が、営業スマイル百パ ーセントで出迎えてくれた。  十年、いや五年前なら、彼女達のこれを目当てに、態々足を運ぶ者も少なからずいたに 違いない。金と時間さえかければ、今からだって、幾らでも男が言い寄ってくるだろう。  多分。  あんまり時間に余裕がある訳ではないので、開口一番、半ば急かすように用件を言った。 「すいません。本日零時より、社長と面会する約束をした者ですが、連絡を取って貰えま せんか?」 「失礼ですが、お名前は?」  案の定、訊き返してきた。 「御巫――そう言えば判る」  低い声で、しかしはっきり名乗ると、 「は、はい、少々お待ち下さいませ――」  受付嬢が、急いでインターフォンを取る。  何処かおかしかっただろうか?  そして、待つコト十数秒。  その間、僕は意味も無く苛立ち、足踏みをしていた。やがて繋がると、彼女は、確かに その予定があるコトを知ると、 「大変長らくお待たせ致しました。八階の社長室へどうぞ」 「どーも」  通行証を受け取ると、さっさと踵を返し、僕は手近なエレベーターに乗り込み、ボタン を押した。因みに僕の他には誰も乗っていない。僕一人だ。  エレベーターは、強化ガラス張りになっており、中から外が、同時に外からこちらの様 子が丸判りになってしまう、何とも困った作りだった。思わず、外からの襲撃について考 えてしまう。そして、上へ上がっていく度に、僕の裡では、それ以上の不安が募っていっ た。 (まさか、途中で止まったり、停電したり、襲われたりしないだろうな………?)  流石にそれは無いだろうと、思いつつも、ついつい万が一の事態を考えてしまう。  そしてこう云った場合、僕の不安が的中する確率は、かなり高いのである。  がたん。  突然エレベーターが止まり、ほぼ同時に室内の明かりが消えた。  僕は異変を察し、ポケットに手を突っ込もうとして――硬直した。  背後を取られている。  気付いた時には、室内は蠱惑的な妖しい香りに満たされていた。  ――ジョーカーだ。  ………ほら、やっぱり当たった。 「こんなトコで逢い引きか?中々イカしたセンスだな」  取り敢えず軽口を叩いてみると、彼女は、「せやろ?」と、然も面白そうに笑いを返し てきた。  そして、 「命でも賭ける気かい?」  と訊いてきた。 「まあ、な」  と僕は頷いた。 「ジョーダンにしちゃ、面白過ぎるで」 「だろ?」  笑いかけると、彼女はそれに食い付いてきた。 「まるで、自分は今までに一度も負けたコトが無い、てカンジやな」 「実はそうなんだ」  自慢げに言うと、彼女は急に醒めた眼をした。 「さ、て――ジョーダンはここまでや。こっからはマジやから、よー聞ィとき」  緩んだ空気が、急速に締まる。 「負けたって、ええ」  絶妙のタイミングで、彼女はとんでもないコトを言った。 「え、お、おい………」 「攫われた彼女を救うため、男は単身敵の本拠地に乗り込む。ここまでイイ。男として、 当然の責務や。そして、大事なのはその後。あんさんは何があっても死んだらアカン。最 悪、彼女を救い出せなかったとしても、あんさんは絶対に生き延びるんや。好きな女のた めに死ぬってゆーのは、ええ話のようで、そうやない。より辛い苦しみを負わせるだけで、 なんもええコトがないんや」  彼女の口調は、何処か重い。まるで、過去に何かがあったかのように。 「もう一度ゆう。負けたって、ええ。腕がのうなってもええ、寝たきりになってもええ。 それでも生きるんや。最悪でも生き延びれば、次はあるん――な、なんや!ヒトがマジな 時に笑いやがって」  彼女は、いきなり訳の分からんコトを言ってきた。  笑ってるだって? 「そうかい、俺は笑っているのか」 「せや。何でやねん!」  ベタな台詞を彼女は口にした。  これが漫才だったら、一体この後、どう話題を発展させていく積もりなのだろうか?  思わず場違いな考えが脳裏を過ぎる。 「いや、まさかこんなトコでウチの訓えと同じようなコトを聞くとは思わなかったんでな」  頬を掻きながら、苦笑した。 「ほんま、大丈夫かいな?」  彼女は、溜め息混じりに言った。その様子が可笑しく、けれども「応」と、応える。 「――約束、やで」  ジョーカーは、あえかに微笑んだ。  そしてゆっくりとこちらに歩み寄り、そっと指先を差し伸べてきた。彼女はそのまま僕 の頬にゆっくりと愛撫しながら、細い眼を更に細めた。  すっと、黒と茶色の三つ編みが交錯する。  ジョーカーの唇が、僕のそれに啄むように重なってきた。一瞬、身体が硬直したが、そ れでも敢えて抗おうとはしなかった。 「センベツや。彼女には内緒やで?」  顔が離れると、流石に照れたのか、彼女はくるりと背を向ける。 「参ったな」  呟いた時には、既に彼女の姿は無かった。  まるで夢か幻か、端からそこにいなかったかのように。  しかし、足元に舞い降りてきた一枚のカードだけが、唯一彼女がここにいたコトを証明 する。  手に取ってみると、案の定それはジョーカーのカードだった。 「あらゆる属性を備えた、何者でない、特別な存在………」  がたん。  急に電気が点き、エレベーターが動き始めた。同時に多少の酔いが抜け、急激に醒める。  エレベーターのランプが上昇するのを見つめながら、頭の中で、奴が僕に聞かせた、例 の会話が再生された。   殺すならさっさと殺して ――そう簡単に死なれては困るんでね。悪いが、それは聞けない   ふん。あんたたちの目的が、何なんだかは知らないケド、ボクはこれっぽちも協力す   るつもりなんかないからね ――おや。そうかい――ならば多少痛い目に遭ってもらわねばならないね   ぎ、ぎゃぁあああ―――――――――――――――――――――――――――ッ!! ――ほう……これはまた、何とも。流石は《吸――   うるさい!『あんた』なんかに、『あんたたち』なんかに何が解るってゆうの!! ――くくく………それを、彼に――コマ君に言えるかな?   ……… ――くくく………彼が"今の"君を見たら、一体何と言うのだろうねえ。実に興味深いよ。   ………コマちゃんは、来ないよ ――何故?   ――コマちゃんは、ボクに同情しているだけなんだ………   『彼』は、そんなにボクのコトが好きじゃないんだ ――ほう?   誰も来ない。   ボクは"いつだって"独りぼっちなんだ!! ――くくく………違いない  後は、長い哄笑だけが続き、やがてテープは切れた。  気分的には、最悪だった。例えるなら、信じていた恋人に裏切られた気持ちだよ。  おいおい、なぎよぅ。それは無いだろう。  全く………何てお馬鹿で、淋しがり屋なんだ。  ここは一発、心優しき僕が、彼女の眼を醒ましてやらなければなるまい。  なぎよぅ。帰ったらこってり絞り込んで、みっちりお仕置きだかんな。  さ、て――  にしても………トコトンついてないね。  自嘲気味に笑いながら、もう一つの事柄を思い出す。  『約束事』が、三つある。  一つ、今夜零時、株式会社鳥羽商事へ来るコト。  二つ、必ず独りで来るコト。  三つ、このコトは警察に言ってはいけない。  さあて、敵の本拠地に乗り込んじまったぜ………もう、後には引き返せない。当たって 砕けろ、だ。なぎ、今すぐ行くから、もう暫く待ってろよ。  気合いを入れ直すと、僕は徐に構えた。  生命を懸けて、敵を鏖にし、なぎを助け、ここを壊滅させる。  その為に、生き延びなければならない。  奇しくもジョーカーが言った通りにした方がイイらしい。  "逢魔が刻"は、近い――